追悼 苦難の時代の友人
2014年06月08日付 Prothom Alo紙

(2014年1月28日付)
1971年、敵国に支配されていたバングラデシュが独立戦争を戦っていた時、日本ではごく少数の市民が自らの意志で支援の手を差し伸べてくれた。優れた言語学者で日本でベンガル語を教えていた奈良毅教授はそうした人たちの先頭に立った一人だった。当時日本に留学中だった数少ないバングラデシュ人は、異国で私たちの解放闘争への世論を喚起しようと立ち上がった。学生たちは奈良教授に、祖国から遠く離れたこの土地での闘争の指導役をつとめてくれるよう依頼した。
このことがきっかけで築かれたこの日本人教授とバングラデシュとの深い繋がりが途切れることになった。バングラデシュにとって特別で大切なこの日本の友人は、肺がんとの長い闘病の末、先週の月曜日1月20日、81歳で逝去した。

奈良教授は1932年の12月、日本の秋田県で生まれた。秋田大学文学部を卒業後東京大学で言語学で修士課程を終了し、博士号取得のためコルカタ大学へ留学した。
著名な言語学者シュクマル・シェン教授のもとでインド・アーリヤ語の研究をすすめ、1964年に同大学から博士号を取得した。日本に帰国後は東京外国語大学のアジア・アフリカ研究所で教鞭をとった。
30年という長い期間にわたって同大学に勤務したのち1995年に定年退職。その後も2003年まで清泉女子大で教壇に立った。東京外国語大学では言語学以外ににベンガル語も教えていた。

独立戦争の時から始まった奈良教授とバングラデシュの繋がりは、教授の人生の最後の日まで途切れることはなかった。1974年には国際交流基金から派遣されダッカ大学で日本語を教えるためにバングラデシュに赴いた。2年ほどのバングラデシュでの滞在は、独立間もないこの国に対する教授の愛情をいっそう深めることになった。
ダカ在住時、ボンゴボンドゥ(シェーク・ムジブル・ロホマン)の知己を得たことを、教授は人生の最も重要な出来事と考えており、そのことをいろいろの場で話していた。そうしたことから、1975年の8月ボンゴボンドゥが家族と一緒に殺害された事件は、教授の心をを深く傷つけることになった。教授がどれほど傷ついたのかを、私たちベンガルの友であるもうひとりの日本人、ラジオジャパンベンガル語セクションの渡辺一弘氏の思い出から知ることができる。渡辺氏はその時東京外国語大学で奈良先生のベンガル語の授業に学生として参加していた。ベンガル語は当時はまだ同大学の主専攻語になっておらず、夏休みに集中講義が行われていた。8月15日の朝、うちのめされ、悲しみに満ちた顔で教授が教室に座ってた。奈良教授は学生たちに、同じ日の少し前、ダッカで起こった心痛む出来事について語った。

奈良教授は常に日本におけるバングラデシュの友人でだった。在日バングラデシュ人たちのさまざまな催しには、常に積極的に参加していた。そればかりでなく何か理不尽を目にすることがあれば、批判することをためらわなかった。

バングラデシュは常に教授を魅了し続けた。その魅力にひかれて教授は何度もバングラデシュを訪れた。一番最近のバングラデシュ訪問は2012年、独立戦争の時の外国の友人の1人としてバングラデシュ政府から友好栄誉賞を受け取ったときであった。その偉大な貢献に対し、然るべき時に褒章をもって報いることができたのは、私たちにとって幸運だったと言えるだろう。
日本政府も同じ年に瑞宝章を授与して、教授の教育分野での貢献を褒賞している。

東京 2014年1月25日 モンズルル・ホク記

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


(翻訳者:伊藤巧作)
(記事ID:292)