3月7日の忘れ得ぬ演説
2017年11月02日付 Prothom Alo紙


それぞれの民族の歴史には、他のすべてのことを覆い隠して、その民族の魂にとって不可分となるような出来事が起きているものだ。1971年のバングラデシュの解放戦争は、そうしたひとつの出来事であり、それに比肩しうるようなものは私たちの歴史には他にない。そして、ボンゴボンドゥ(シェーク・ムジブル・ロホマン)の3月7日の演説がその解放戦争を鼓舞することとなった主な理由の一つであるということも認めなければならない。解放戦争のときはもちろん、独立後もその演説は私たちを奮い立たせ、私たちに生気を与えている。この演説はあらゆる不正や誤った判断に対する極めて衝撃的な宣言だった。
その演説を国際連盟教育科学文化機関・ユネスコが世界の歴史を証言する文書(世界の記憶)として採用したことは、国中の、そして民族にとって栄誉の知らせとなった。
去る火曜日ユネスコは世界の78の歴史的で重要な文書や演説を「世界の記憶」とすることを発表したが、その中にはボンゴボンゴゥの1971年3月7日の演説が含まれている。ユネスコの今回の承認によってこの演説は、バングラデシュという枠を超えて、世界の歴史の中に座を占めることになった。これは私たちにとって誇りであり喜ばしい出来事である。イギリスの歴史家ジェイコブ・F・フィールドは世界の最も優れた演説を集めた”We shall fight on the beaches : The speeches that inspired history”(『戦争と演説:歴史をつくった指導者たちの言葉』)という名前の本を著したが、そこでも3月7日の演説が人々を鼓舞した演説のひとつとされている。
ボンゴボンドゥの演説は、単なる歴史の例証ではなく、我が民族すべてを励ますものとなった。様々な時代に渡って、多くの指導者たちがそれぞれの部族・人々を奮い立たせ、駆り立てるような演説を行ってきた。しかし、それと同時に演説をしかしそうした演説が実際の行動に応用されたり、現実化された例は稀である。ボンゴボンドゥの演説と同時に、バングラデシュ全土で非協力運動が起こり、3月25日以降にはそれは武器を掲げた解放戦争の形を取った。わずか17分間の演説で、その日、ボンドボンドゥは、私たちの長きにわたった闘争と運動の背景を私たちの眼前に示したと同時に、この国の人がなすべきことについて明確な指針を与えてくれたのであった。一言で言えば、それは解放戦争の戦略であった。その演説は独立戦争中の日々において私たちを奮い立たせるものであっただけでなく、今後の世代にとっても、進むべき道筋を示すものとなろう。この演説をもとにこれまで、私たちの記憶から消えることのない詩や小説やエッセイが書かれた。これからも書かれることだろう。そして、このようにして、ひとつの演説が我が民族すべての声となったのである。演説は現在バングラデシュ憲法の一部となっている。ユネスコがこの演説を世界の記憶として認証したことは、民族すべての誇りである。
1971年3月7日の演説でボンゴボンドゥは断固たる口調でこう述べた。「この戦いは私たちの解放の戦いである!この戦いは私たちの独立の戦いである!」その年占領者のパキスタン軍を打ち負かして私たちは独立を達成した。しかし、解放の戦いは今日も終わっていない。
民族にとってのこの歓喜のときに、私たちはボンゴボンドゥ・シェーク・ムジブル・ロホマンが行ったあの演説を、大きな敬意をもって思い出すのである。


(以下参考として1971年3月7日、バングラデシュ建国の父と呼ばれるシェーク・ムジブル・ロホマン元首相がダカのレースコース広場で行った演説の翻訳を追加する。この演説は原稿なしで行われたものとされ、書き起こしも何種類か存在するが、ここに紹介するのはオンラインのバングラデシュ事典といえるBanglapediaに掲載されているものである)
「私は今日、悲しみに打ちひしがれた気持ちでここにやってきました。その理由は皆さんがご存知のとおりです。私たちは今まで命を懸けて努力してきました。それなのに今日、ダカ、チョットグラム、ロングプル、ジョショルの幹線道路が、私の兄弟たちの血で赤く染まってしまいました。
ベンガルの人々は自由を願っています。生きたいと思っています。権利を手にしたいと考えています。私たちが何か悪いことをしたでしょうか?選挙で皆さんは、私に、そしてアワミ連盟に圧倒的な票を与え、勝利をもたらしてくださいました。国会が開かれ、私たちはそこで憲法を作成し、この国を作り上げるはずでした。この国の人々が経済的、政治的、文化的な解放を手にするはずでした。しかし残念なことに、今日こんな話をしなければならないのは残念なことなのですが、(分離独立以来の)23年の悲しい歴史は、ベンガルへの迫害と、ベンガルの人々の流血の歴史となってしまったのです。この23年間の歴史は死を前にした男たち女たちの悲嘆の声の歴史であり、ベンガルの歴史はこの国の人々が流す血で道を赤く染める歴史でありました。
1952年(の言語運動のとき)私たちは血を流しました。1954年には選挙に勝利したにもかかわらず、政権につくことはできませんでした。1958年には、アユーブ・ハーンが戒厳令を敷き、その後10年にわたって私たちを支配しました。1966年の(東パキスタンの自治権獲得を目指す)6項目の要求運動では、6月7日我が同胞たちが発砲され、命を落としました。1969年の抗議運動でアユーブ・ハーンが倒れ、代わってヤヒヤ・ハーン氏が政権を握ったとき、氏は国に憲法と民主主義を与えると約束しましたので私たちはそれを受け入れました。
それからたくさんのことがあり、選挙が実施されました。私はヤヒヤ・ハーン大統領と会いました。私はベンガルだけでなくパキスタン全体の最大政党のリーダーとしての立場から、2月15日に国会を召集するよう頼みました。(しかし)大統領は私の言葉に耳を傾けようとせず、(その代わりに少数政党の党首である)ブット氏の言い分を聞いたのです。3月の第1週に国会を開くとのことでした。私たちはそれに対し、良いでしょう、私たちは議会に参加しましょうと答えました。私は国会で話をしましょうと言いましたし、誰かが、たとえ一人であっても理にかなったことをいう人間がいるならば、私たちはそれを認めようとさえ言いました。
ブット氏はダカにやってきて、話し合いが行われました。去るにあたって、話し合いの扉は閉ざされていない、さらに話し合いが行われるだろうと言いおいて行きました。それから私は他の指導者たちとも話をしました。あなたがたもこちらにおいでください、話し合いをして一緒に憲法をつくりましょうと伝えました。(しかし)ブット氏は言ったのです、西パキスタンの国会議員たちがここに来たなら国会は屠殺場と化すであろうと。そしてここに来ようとする者は命がないぞと。もし誰かが国会に参加すればペシャワールからカラチまで、(西パキスタンの)すべての商店が無理やり閉じられることになると言ったのです。わたしはそれでも、国会は開かれるべきだと主張しました。しかし3月1日になって国会開催は中止となりました。
ヤヒヤ・ハーン氏は大統領として国会の開催を約束していたのです。私は参加を表明したのです。(しかし)ブット氏は参加しないと言いました。西パキスタンの35名の国会議員がここダカを訪れました。そのあとで突然、国会が中止されたのです。そしてそうなったことの責任はベンガルの人々にあり、私にあるとされたのです。銃を突き付けられた人々の間で、抗議の機運が高まりました。私は(ベンガルの人々に)平和的なゼネスト決行を呼びかけました。工場をすべて閉鎖するようにと訴えました。人々はそれに応えてくれました。あなた方は自らの意志で外に出、抗議活動を行なってくださったのです。ベンガルの人々は平和的な闘争を展開しようと誓ったのでした。
しかしその結果、我々が手にしたものは何だったのでしょう?外敵から(パキスタンという)国を守るために、我々国民のお金で購入された武器が、私の国の貧しく不幸で虐げられた人民たちに対して使われているのです。私たちはパキスタンの多数派です。多数派である私たちベンガルの人民が国の権力を掌握しようと試みたとき、彼らは私たちに襲い掛かってきたのです。私は電話で(ヤヒヤ・ハーンと)話しました。私はこう言いました。ヤヒヤ・ハーンさん、あなたはパキスタンの大統領です。どうぞこちらに来て私の貧しい人々、我がベンガルの人に銃弾が浴びせられたのか、どのようにして母親たちの手から子どもが奪われていったのかを見てください、と。こちらにおいでになって、見て、考えてくださいと言ったのです。それに対しヤヒヤ氏は10日に円卓会議を開くことを決めたと答えました。私はそれは何の会議なのか、だれと話し合いをすることになるのかを尋ねました。我が人民の血を奪った連中と話をするのですかと。すると私の意見も聞かず、5時間の秘密会議を行った後、大統領は突然演説をおこない、すべての罪は私やベンガルの人々にあると決めつけたのです。
私の兄弟である皆さん。
国会は25日に召集されました。流れた血の痕はまだ乾いていません。私は10日に宣言しました。殉難者たちの血を踏みつけて国会に参加するなどムジブル・ロホマンには決してできることでないと。国会が召集されました。それならばまず、私の要求に応えなければなりません。まず戒厳令を撤廃しなくてはなりません。すべての兵士を兵舎に帰さなくてはなりません。人々が殺害された経緯について徹底的な調査を実施しなければなりません。そして人民の代表に国権を委譲しなければなりません。それらが実現された後で、国会に参加するかどうかを考えることにします。それ以前の参加は決してあり得ません。
私が欲するものは首相の座ではありません。私が望むのはこの国の人々が権利を獲得することです。
私はここに明確に宣言する。今日よりバングラデシュのすべての役所、裁判所、教育機関は無期限で閉鎖される。貧しい人々が辛い思いをしないよう、我が人民が給与を引き出すのに困ることのないよう、他のものすべてについてのゼネストは明日以降中止とする。リキシャ、牛車、鉄道、船は動く。ただ政府合同庁舎、最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所、半官の事務所のみが業務を停止する。28日に公務員には給与が支給される。それ以降給与の支給が停止されたら、一発でも弾丸が放たれたら、そして我が人民が殺害されるようなことがあるなら、私はあなた方に頼みたい、すべての人が自宅を砦に変えるようにと。あなた方の手元にあるあらゆるものを駆使して、敵に当たってほしい。私がもし人生の終焉を迎えて指示を出せないような状況になったときは、道路をすべて封鎖してほしい。米の飯を使って、水を使って(食料や水の供給を止めることで)敵を倒そう。兵士たちよ、君たちは私の兄弟だ。君たちは兵舎にとどまるがよい。誰も咎めたりはしまい。だが私の胸に銃弾を撃ち込もうとするな。(ベンガルの)7千万の人民を抑え込むことなど決してできない。我々が死ぬことを知った今、だれも我々を押さえつけることなどできない。
殉難者となったすべての人たち、負傷を負ったすべての人たちには、我々アワミ連盟としてできる限りの援助を約束する。余裕があれば少しでも良いから我々の救援基金への寄付をお願いしたい。この7日間にわたって行われたゼネストに参加した労働者の方々の雇用主には、ゼネスト期間分についても報酬を支払うよう求めたい。公務員に告げる。私の指示に従わなければならない。我が国が解放されるまでは誰も税金を支払うことはしない。敵方の軍はすでにこの国に侵入している。彼らは自分たちの間でいさかいを起こし、略奪行為に走る。そのことを肝に銘じておいてほしい。このベンガルに住む人たち、ヒンドゥーであろうとムスリムであろうと、ベンガル人であろうとなかろうと誰もが我々の兄弟である。その人たちを守る責任はあなた方にある。我々が汚名を浴びせられるようなことはあってはならない。ラジオやテレビで働く人たちにお願いしたい。ラジオでもし我々のことを伝えないなら、ベンガル人スタッフは職場に行かないでもらいたい。テレビでもし我々のニュースを流さないなら、ベンガル人スタッフはテレビ局に行かないでもらいたい。人々が困らぬよう、銀行は2時間開店することとする。しかし東ベンガルから西パキスタンへは1ポエシャも送金することはできない。電話と電報は東ベンガルの中では使え、また外国にニュース送信も行なうことができる。だがこの国の人々を殺すようなことが行われるなら、ベンガル人はよく考えて行動してほしい。すべての村に、すべての集落にアワミ連盟の指導のもと闘争委員会を設立せよ。そして所持するものすべてを使ってきたるべき事態に備えよ。すでに血は流れた以上、我々はさらに血を流すことを厭わないと肝に銘ぜよ。神のご意思によりこの国の人々を解放するのだ。この度の闘争は我々の解放の闘争であり、この度の闘争は独立のための闘争である。ジョエ・バングラ!ベンガルに勝利を!」

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(翻訳者:井倉愛穂、八木みずき)
(記事ID:698)