ショウミトロ・チョットパッダエ死去
2020年11月15日付 Prothom Alo紙


第一に彼は俳優であった。詩作、タゴール作品の朗読、雑誌編集、劇団が彼の広範な特徴の一つひとつであった。ショウミトロ・チョットパッダエは全てにおいて際立っていた。彼は、その評価について知ったような議論を展開する余地もないほどの芸術家であった。時間の泥は、彼の気品ある美に触れることもできないだろうと言われたものだった。そのショウミトロ・チョットパッダエの、86年間にわたって続いてきた時間が今日、永久に止まった。ショットジット・ラエ監督の「オプー」(注1)であった俳優ショウミトロ・チョットパッダエが亡くなった。

インド時間の今日(2020年11月15日)12時15分、西ベンガル州コルカタのベルビュー病院で、俳優そして詩の朗読家、詩人でもあったショウミトロ・チョットパッダエは息を引き取った。12時15分に死亡が宣告された。病院での41時間にわたる闘いは終わった。病院関係者によると、新型コロナによる脳症のため、治療のあらゆる試みは失敗に終わったという。
去る10月1日の在宅時から彼の体調の悪化がみられた。初めは発熱があった。しかしコロナの症状は何もなかった。その後医師の勧めでコロナの検体検査が行われ、10月5日にCOVID-19陽性の診断が出た。10月6日にベルビュー・ナーシング・ホームに入院、直近では10月14日、コロナ検体の検査で陰性の診断が出た。その後ショウミトロは回復に向かった。治療は続いていた。
10月24日の夜からは体調は悪化の道をたどり始めた。徐々に意識を失っていった。体調改善を目指して、去る木曜日には血漿治療が施された。その前日の水曜日には腎臓透析が行われた。金曜日の午後になって心拍数が突如増加し、夜には意識レベルが5にまで低下した。ショウミトロの治療を担当していた16人の医療チームのメンバーは危機感を抱いた。肺機能支援のため、昨日には酸素量が増やされた。この時、医療チームのリーダーで臨床専門医のオリンドム・コル氏は、意識レベルが3まで低下すると医学的には脳死として扱われると説明した。様々な生命維持装置が用いられた。コル医師は次のように述べた。「彼を回復させるための私たちの41日間の闘いは、十分ではなかったと思います。私たちから新しくお伝えすることは、今のところ何もありません。彼が回復するよう、皆祈らなければなりません」。医師たちは精一杯の努力を続けるともオリンドム・コル医師は語った。状況はさらに悪化していた。
今日になって100%の人工呼吸措置が取られた。血圧、心拍、脈拍を正常にするために必要な薬は全て投与された。しかしショウミトロが治療に反応を示すことは最後までなかった。全ての試みは功なく、心臓は動きを止めた。自然の定めに従ってショウミットロ・チョットパッダエはこの世に別れを告げた。

ショウミトロ・チョットパッダエは1935年1月19日に西ベンガル州ノディア県で生まれた。父親はコルカタ高等裁判所で法律関係の仕事をしていた。人生の最初の10年をショウミトロは(ノディアの中心都市である)クリシュノノゴルで過ごした。兄が劇団を主宰していた。家には演劇に親しむ雰囲気があった。幼少期からショウミトロは演劇を始めた。コルカタのシティ・カレッジでベンガル文学を専攻した後、ショウミトロはコルカタ大学に入学し、大学院でベンガル文学を学んだ。カレッジでの最終年、たまたま舞台でシシル・バドゥリの劇を見る機会を得た。その日、彼の人生の転機が訪れた。彼はすっかり演劇にのめり込んだのだった。ショウミトロはシシル・バドゥリを師と仰いだ。本人の言葉によれば、「二人の間には驚くべき友情が存在した」のだという。二人はあらゆることについて語り合った。
ベンガル映画界の伝説的存在、チョビ・ビッシャシュにショウミトロを引き合わせたのはショットジット・ラエに他ならない。ショウミットロが映画の世界に出会ったばかりのころだった。 ‘অপুর সংসার(Apur Sangsar)’(注2)で彼は主人公のオプー役を務め、このデビュー作で注目を集めた。この映画の撮影初日、最初の本番でOKが出たとの逸話も知られている。この作品中の「食事の後で一本ずつ、約束したでしょ?」という彼とショルミラ・タクルのあのやり取り、その化学反応は今もベンガル人の心に色褪せることなく残っている(注3)。その後ショウミトロは次々に ‘ক্ষুধিত পাষণ(Khudhita Pashan)’, ‘দেবী(Devi)’, ‘ঝিন্দের বন্দী(Jhinder Bandi)’, ‘চারুলতা(Charulata)’(注4), ‘কিনু গোয়ালার গলি(Kinu Goyalar Gali)’ など様々な映画に出演した。ショットジットの約14本の映画にショウミトロは出演した。ショットジット氏の生み出した「フェルダー」(注5)をショウミトロは銀幕で生き生きと演じた。「フェルダー」は後に何度もテレビドラマや映画となったが、ベンガル人なら誰しも「ショウミトロのようなフェルダーは他には誰もいない」と一様に言うだろう。
ショウミトロが出演した代表的な映画には ‘অশনিসংকেত(Ashani Sangket)’(注6), ‘সোনার কেল্লা(Sonar Kella)’, ‘দেবদাস(Devdas)’, ‘নৌকাডুবি(Nouka Dubi)’, ‘গণদেবতা(Gana Devta)’, ‘হীরক রাজার দেশে(Hirak Rajar Deshe)’, ‘গণশত্রু(Gana Shatru)’, ‘সাত পাকে বাঁধা(Sat Pake Bandha)’, ‘ক্ষুধিত পাষাণ(Khudhita Pashan)’, ‘তিন কন্যা(Tin Kanya)’, ‘আগুন(Agun)’, ‘শাস্তি(Shasti)’, ‘জয় বাবা ফেলুনাথ(Jay Baba Felunath)’などがある。
ショウミトロは多くの賞を受賞している。2004年には(インドで3番目に高い栄誉賞である)ポッドブション賞を授与された。その他にも国民映画賞、(インド最高の映画賞である)ダダサヘブ・ファルケ賞など多くの賞を手にした。演劇の傍ら、詩の朗読、タゴール作品の朗読、雑誌編集、劇団の運営も手掛けた。1960年にディパ・チョットパッダエと結婚し、男女一人ずつの子に恵まれた。娘のポウルミ・チョットパッダエは文化活動を行っている。

注1: ビブティブション・ボンドパッダエ原作の小説をもとにショットジット・ラエ監督が製作した映画『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』の主人公の名。ショウミトロ・チョットパッダエは三作目『大樹のうた』に出演した。
注2: 邦題『大樹のうた』(1974年日本公開)。『大地のうた』『大河のうた』と併せて「オプー三部作」と呼ばれる。
注3: 映画『大樹のうた』ではショウミトロ・チョットパッダエが主人公のオプーを、ショルミラ・タクルがその妻オポルナを演じた。この記事で引用されている台詞は、オプーが寝起きに煙草を吸おうと煙草の箱を開け、中から妻オポルナの書き置きを見つける場面のもの。
注4: 邦題『チャルラータ』(1975年日本公開)。
注5: ショットジット・ラエが著した探偵小説シリーズの主人公の名。
注6: 邦題『遠い雷鳴』(1978年日本公開)。

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(翻訳者:高橋瑞季)
(記事ID:922)