伝統左派における亀裂
2005年08月01日付 Hamshahri 紙

2005年8月1日 ハムシャフリー紙
【ヤーセル・モラーディー】
 ここ最近新聞紙上を賑わせている最重要ニュースの一つに、キャッルービー師が正式に《闘う宗教指導者会議》から離脱したことが挙げられる。

 1366年〔西暦1987/8年〕の政治的出来事、すなわちメフディー・キャッルービーやセイエド・マフムード・ドアーイー、ジャラーリー・ホメイニーらが《闘う宗教指導者協会》から離脱し、新たにこれらの人物によって《闘う宗教指導者会議》が結成されたことを記憶している人々にとって、このキャッルービー師の《闘う宗教指導者会議》からの離脱という出来事には、容易に想像しがたいものがある。

 革命初期の時代に急進的で原理主義的、伝統破壊的な人物によって構成されていた伝統左派グループは、1368年〔1989年〕までに権力の中枢のほとんどを掌中に収めるようになり、そのために自らの活動をより統一性のある形で追求する目的で、自らの母体組織から分離することを決意したのであった。しかし、しばらくすると、国民の関心は別の政治的潮流に向かいはじめ、伝統左派は政治の表舞台から退くことを余儀なくされた。〔*1992年の第4議会選挙からの左派陣営の締め出し、及び選挙での敗北を指す〕

 しかしこの間も、アブドッラー・ヌーリー師やセイエド・モハンマド・ハータミー師らは《建設の政府》に参画していた〔*1〕。マジード・アンサーリー師〔*2〕やその他の《闘う宗教指導者会議》のメンバーも国会議員としての地位にいた。ムーサヴィー・ホイーニーハー師〔*3〕は《サラーム紙》〔*4〕を発刊した。このような中で、メフディー・キャッルービー師は最終的に、さまざまな地位から離れ、《闘う宗教指導者会議》の事務局長職に専念し、同組織の諸事をまとめていた。
*1:1989年から1997年までのラフサンジャーニー大統領政権期の、イラン・イラク戦争後の戦後復興の時代を指す。1989年から1993年の第一期ラフサンジャーニー政権では、ハータミー師はイスラーム指導相を、またヌーリー師は内務相を務めた。
*2:ハータミー大統領政権の最後の1年間、国会担当の副大統領を務めた人物。
*3:1979年の米大使館占拠事件を起こした急進的学生たちのまとめ役として活躍。かつての急進的学生たちがハータミー政権時代に改革派として活動するようになって後も、彼らと関係が深い。
*4:改革派の新聞として政治改革を主導したが、1999年に司法権より発行停止処分を受け、同年7月のテヘラン大学騒擾事件に発展。

 キャッルービー師は1376年〔1997年〕の大統領選挙の時も、当初ミール=ホセイン・ムーサヴィー〔元首相〕の擁立を目指したが、同氏が出馬を辞退すると、モハンマド・ハータミー師に出馬するよう要請した。自らも第6議会で〔国会議長としての〕職責を果たすべく奮闘した。今年の大統領選挙でも、同師は再度、ミール=ホセイン・ムーサヴィー氏の擁立を目指したが、再び同氏が辞退すると、今度は自らがはじめて個人として選挙戦に挑む決意をしたのであった。しかし彼のこの行動は、さまざまな反応を呼び起こした。イラン・イスラーム参加戦線やイスラーム革命聖戦士機構の同志たちは、キャッルービー師が立候補を表明すると、モイーン氏を自らの候補者として選挙戦に送り込み、キャッルービー師に対して、彼らの間のギャップは連立の可能性など存在しえないほど根深いものであることを示したのであった。

 しかし、キャッルービー師にとってより驚くべきは、《闘う宗教指導者会議》の党員たちの反応であった。キャッルービー師は自らこのことについて、次のように語っている。「残念なことに、数カ月前より、一部の者たちは《闘う宗教指導者会議》が瓦解するよう画策している。特に私の大統領選への立候補の際に、彼らは誠実さや党員としての義務に外れた態度をとっている。‥‥私の側の対応が及ぼすであろう影響を心配した者たちは、明らかに私を党内抗争へと巻き込むことを望んでいる。彼らは安全な場所に隠れて、自らの目的を追求しようとしている」。

 基本的に我が国では、党は選挙での勝利を目的として、自らの活動に従事している。このことは《闘う宗教指導者会議》であっても例外ではない。ところが、この宗教指導者たちからなる組織は大統領選挙を控えて、自らの事務局長のために特別なことは何もしなかったのである。

 ムーサヴィー・ホイーニーハー師も、セイエド・モハンマド・ハータミー師も、モハンマド・アリー・アブタヒー師〔元副大統領〕も、ムーサヴィー・ボジヌールディー師も、その他多くの《闘う宗教指導者会議》の党員らも、大統領選挙の際、自らの事務局長を支援しようとせず、あるいはだんまりを決め込み、あるいは暗にハーシェミー・ラフサンジャーニー師やモイーン氏を支持したのである。もちろん、ことはこれだけにとどまらなかった。マジード・アンサーリー師などはキャッルービー師を批判し、〔おおっぴらに〕ハーシェミー・ラフサンジャーニー師を支持するほどだった。このことがキャッルービー師に、《闘う宗教指導者会議》から離脱することを促したのである。このような状態で、選挙を前にしても統一した態勢をまったく示そうとしない政党のために、時間を費やし、活動を続ける価値などまったくないからだ。

 もちろん、今日キャッルービー師は、マフダヴィー=キャニー師という戦友の古き教訓の意味を理解し、宗教指導者たちからなる組織が政党活動をすることの難しさを感得したに違いない。すなわち、さまざまな宗教指導者からなる政党は、さまざまな理由から、他にはない特徴を有しているのだ。《闘う宗教指導者協会》の事務局長を務めるアーヤトッラー・マフダヴィー=キャニー師が陰に陽に述べているように、宗教指導者は政党活動を行うべきではないのであり、それゆえに同師は《闘う宗教指導者協会》を、《政党100条委員会》に党として登録していないのである。

 同師が信じているところによれば、宗教指導者という階層は一つの包括的・普遍的集団であると同時に、個別的・特殊的集団でもあり、政党という限定された枠組みの中で自らを国民の前に表すべきではないのである。しかし、キャッルービー師はこのような見解に反し、《闘う宗教指導者会議》を一政党として登録した。もちろん、これまでのところキャッルービー師は自らが立ち上げた新党においては、宗教指導者ではない人物を活用しており、宗教指導者としてはラスール・モンタジャブニヤー師のみを同党に同伴させている。

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:606 )