中道派の外交政策への復権:外交戦略評議会設置を分析する
2006年06月27日付 Sharq 紙

2006年6月27日付シャルグ紙1面

【シャルグ】イラン外交戦略評議会の設置を命ずる最高指導者令の発令から24時間が経ち、マフムード・アフマディーネジャード政権からは、本件に関する最初の反応が政府報道官より出された。

 ゴラーム=ホセイン・エルハーム政府報道官は昨日、記者団に対して「同評議会の役割はすでに決められており、もっぱら諮問機関として、戦略の策定に携わることになる。実行機関としての役割は有していない」と語り、さらに次のように付け加えた。「我が国の外交政策全般を実行するのは外務省である。もちろん、国家安全保障最高評議会も同様の役割を担っており、同評議会の決定事項は、最高指導者の承認を必要としている。‥‥外交戦略評議会の設置は、外交部門における我が国のマクロな政策策定能力を高めることになるだろう。このような評議会の設置は最高指導者の権利であり、われわれは巨視的な観点から国益を確保するために、この決定がなされたものと考えており、歓迎すべきことである」。

 政府報道官はこのように述べ、外交戦略評議会の設置を擁護・歓迎したが、その一方でその役割をもっぱら《諮問》機関に貶めることで、同評議会が政府や外務省に対して《優越的》な位置を占めることには、反対する意思を示した。

 しかしながら、発表された最高指導者令には同機関に関して《諮問》という語はまったく用いられていない。最高指導者令には、次のようにある。「ハッラーズィー博士殿 イスラーム共和国の外交に関して、巨視的な観点から意思決定を行い、新たな可能性を探ることに寄与し、かつ同分野の傑出した専門家の意見を活用するためには、外交戦略評議会の設立が必要である」。

 この最高指導者令にもとづけば、外交戦略評議会には次の3つの役割が期待されていると見ていいだろう。1.マクロな意思決定への支援、2.外交に関する新たな可能性を探ること、3.専門家の意見を活用すること。最高指導者が選んだ《専門家》は、まさに昨年イラン外交の意思決定から省かれた者たちに他ならず、彼らは最高指導者の命により、再び外交の舞台に返り咲いたことになる。「アリー・アクバル・ヴェラーヤティー博士、アリー・シャムハーニー氏、モハンマド・シャリーアトマダーリー氏、モハンマド・ホセイン・ターロミー氏の各氏を、5年間を任期として同評議会の評議員に任じ、貴殿[キャマール・ハッラーズィー博士]を同評議会の議長に任命することが適当である」。

 外交戦略評議会の委員らは、政界において中道派の人物として知られている。以下、彼らについて紹介しよう。

 ▼ アリー・アクバル・ヴェラーヤティー:

 ミール=ホセイン・ムーサヴィー首相、及びアクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニー大統領の政権下で、16年間にわたり外務大臣を務めてきた人物。ハータミー時代に、政府からは外れたものの、改革派との敬意に満ちた関係は続いており、国際問題担当の最高指導者上級顧問団の面々とは近い関係を有している。

 ヴェラーヤティーは、特に第9期大統領選挙の際、急進派勢力とは明確に一線を画した。アリー=アクバル・ナーテグ=ヌーリー師が座長を務める革命諸勢力調整評議会がヴェラーヤティーを大統領候補に選出した場合には、同評議会から離脱する旨、右派連合の急進派勢力が宣言したことは、このことをよく示している。革命諸勢力調整評議会がヴェラーヤティーの大統領選への出馬に冷淡だったのも、恐らくこのことが原因だったものと思われる。とはいえ、〔同評議会は最終的に〕アリー・ラーリージャーニー氏を候補として選んだことは、右派連合の急進派勢力の同評議会からの分離を阻止することにはならなかった。

 アリー・アクバル・ヴェラーヤティーとマフムード・アフマディーネジャードというまったく異なる人物が、〔右派の〕立候補者として独立して出馬を表明したことは、調整評議会の機能不全を惹起した。一年後、アリー=アクバル・ナーテグ=ヌーリーは、もし調整評議会がヴェラーヤティーのような中道的な人物を立候補者として擁立したならば、ハーシェミー=ラフサンジャーニー師が選挙で協力することもありえたであろう、と述懐している。

 ハーシェミー=ラフサンジャーニーが出馬するならば、立候補を降りるとヴェラーヤティーが明確に述べたのも、同様の理由によるものと思われる。実際、ヴェラーヤティーは出馬を断念し、1384年〔2005年〕春には、自らの選挙事務所をハーシェミー=ラフサンジャーニーの選挙事務所と合流させた。ヴェラーヤティーは選挙後、ハーシェミー=ラフサンジャーニー選挙事務所が犯した一部の過ちについて、批判する発言を行っている。

 ヴェラーヤティーはつねに、改革派陣営から尊敬を集める人物である。1376年〔1997年〕の大統領選挙の際も、ヴェラーヤティーの名が候補者リストに掲載されるのではないかとの噂が政界で流れ、《闘う宗教指導者会議》〔非主流派の宗教指導者らによる政治団体で、ハータミー師の出身母体〕の機関紙サラームは、彼を「中道派の政治家」として大統領選に出馬する可能性について言及していた。

 同時に、ヴェラーヤティーはまさに中道的な政策ゆえに、60年代〔1980年代〕には、イラン・サウジアラビア関係や西洋諸国との話し合いといった課題に関し、左派陣営から批判の対象となっていたことも事実である〔当時の左派陣営は、統制経済や対外強硬主義などナショナリスティックな主張を唱えていた〕。もちろん、70年代〔1990年代〕になると、このようなことが繰り返されることはなかった。というのも、左派的な心性から生まれた改革派陣営は、外交政策においてはデタントを擁護するようになっていたからである。

 ヴェラーヤティーは現在、改革中道派にとっても、保守中道派にとっても、望ましい人物として写っている。イラン核問題に対して彼がとっているスタンス、そしてイラン外交政策の戦略を《南》(南米)や《東》から《中東地域》へと軸足を移すべきとの彼の主張は、〔ヴェラーヤティーのごとき〕中道派の外交官の視点と、〔ヴェネズエラやキューバとの関係強化などを訴えるような〕新米の外交官のそれとの違いを浮き彫りにする。ヴェラーヤティーはこのことについて、シャルグ紙1385年〔2006年〕ノウルーズ特集号に掲載された論文の中で、詳細に論じている。

 実際、以前に同氏が最高指導者よりサウジアラビアに派遣され、同地を個人的な資格で訪問したことは、この路線の追求の結果であると言える。重要な意味をもった同訪問では、イランとサウジアラビアという中東地域の中心的な国の間で、ある地域的戦略が構想されたとも言われている。ヴェラーヤティーの外遊は、その後マフムード・アフマディーネジャード大統領の(イスラーム諸国会議機構会合の際の)サウジアラビア訪問に結実し、最近ではサウード・アル=ファイサル外相がサウジアラビア国王のイラン最高指導者宛の親書を携帯するなどの動きにつながっている。

 さらにそれ以前にも、ハーシェミー=ラフサンジャーニーが巡礼のためにサウジアラビアを訪問した際、ゴラーム=ホセイン・キャルバースチーやアリー=アクバル・ヴェラーヤティーといった、政権外の人物を同行させたことが挙げられる。このことが、ヴェラーヤティーが海外において有している、アフマディーネジャード政権から自律した地位を示し、最高指導者が公式の政府機関から外れた人物を自らのメッセージの伝達者として、初めて利用することにつながったのである。そしてこのことは、外交に携わる人間にとって、政府機関に属しているか否かではなく、経験の有無が重要であるということを示したのであった。実際、ある閣僚はヴェラーヤティーのサウジアラビア訪問が、大統領のリヤド訪問の成功の背景となったと語っている。

 ヴェラーヤティーはまた、16年間に及ぶ外相としてのキャリアの中で、強要された戦争〔イラン・イラク戦争のこと〕を終戦へと導き、また国連決議598号をめぐる交渉にも携わった経験を有しており、これらの経験がイラン核問題の解決にも有効であろう。

 ▼ キャマール・ハッラーズィー

 外交戦略評議会議長に任命されたハッラーズィー氏は、セイエド・モハンマド・ハータミー政権の外務大臣であり、改革派に属する人物として知られている。イラン国連大使として、外交官としてのキャリアを始めたハッラーズィーは、ハータミーが文化イスラーム指導相であった頃、イラン国営通信のトップとして活躍していた〔*文化イスラーム指導省は、マス・メディアを管轄する立場にある〕。

 ハッラーズィーが外相を務めていた頃、イラン外務省はハータミー政権のデタント政策の完全なる影響の下にあり、ハータミー大統領がドイツ、フランス、イタリア、スペインを歴訪するなど、イランとヨーロッパの関係は頂点に達した。ハータミーは国家安全保障最高評議会の書記としてハサン・ロウハーニーを任命し、核問題の責任者に当たらせたことで、外務省の力は弱まったものの、しかしロウハーニー=ハッラーズィーの戦略的協調関係のおかげで、外交政策をめぐる対立が生ずることは阻止されていた。ロウハーニー、ハッラーズィー両者とも中道派の人物であるとされているためだ。

 ハッラーズィーが外相時代に利用できた《道具》として、特に中道的な大使らの存在を挙げることができよう。彼らは、デタント政策を基本として、イランと世界との関係を構築していった。在イギリス大使を務めたモハンマド・ホセイン・アーデリー、在フランス大使のサーデグ・ハッラーズィー、国連大使のモハンマド・ジャヴァード・ザリーフ、在中国大使のフェレイドゥーン・ヴァルディー‥‥などの面々らである。彼らのうち、(政府を越えたところからの支持を受けた)モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ国連大使だけが、現在現職にとどまることができている。

 ハッラーズィーを外交戦略評議会議長に選んだことは、改革派に対する明確なメッセージでもある。改革派はハッラーズィーよりもリベラルな人物を選択することを望んでいたかもしれない。しかし、ハッラーズィーがハータミー政権下で、そして第6議会時代に、8年間連続で外相を務めたことは、体制首脳と理解し合うことのできる中道的な人物が閣僚を担うことの重要性を、改革派陣営の側が徐々に理解するようになっていったことを示している。

 ▼ アリー・シャムハーニー

 外交戦略評議会の委員に選ばれたもう一人の人物として、アリー・シャムハーニー氏がいる。セイエド・モハンマド・ハータミー政権の国防大臣を務めた彼は、革命防衛隊でもっとも有力な司令官であり、1376年〔1997年〕の大統領選挙ではハータミーを擁護し、革命防衛隊が他の候補者支持で結束するのではないかとの憶測を見事に打ち破った人物でもある。

 同様の分析・見方から、ハータミーが二度目の大統領選挙に立候補した際、シャムハーニーも大統領候補者として彼と争ったが、しかし第6議会はモフセン・アールミーンの演説の甲斐あって、高い支持のもと、彼の国防大臣留任を承認した経緯がある。

 イラン・イラク戦争の時代、軍の高官としての地位にあったシャムハーニーは、つねに体制首脳と互いに理解し合うことのできる人物の一人であった。革命防衛隊と国軍の双方の海軍の共通司令官としての地位に昇りつめたハーシェミー=ラフサンジャーニー時代であれ、あるいは国防大臣の地位に就いたハータミー政権下であれ、そのことに変わりはなかった。彼はまた、短い期間ではあるが、ミール=ホセイン・ムーサヴィー政権下で、革命防衛隊相代行を務めたこともある(政府機構改革により、同省は現在は存在していない)。

 ▼ モハンマド・シャリーアトマダーリー

 アリー・シャムハーニーの立場は、ある程度モハンマド・シャリーアトマダーリー氏のそれと類似している。セイエド・モハンマド・ハータミー政権下で商業大臣を務めた彼は、1376年〔1997年〕の大統領選挙では《イスラーム革命価値防衛協会》の設立メンバーとして、同協会の総書記を務めるモハンマド・モハンマディーニーク(レイシャフリー)〔元情報相〕を支持した。しかし、ハータミー政権には同協会の代表として入閣を果たし、別の価値防衛協会のメンバーであるアフマド・プールネジャーティーとともに、改革派陣営に近づいていった。ハータミー第二次政権の組閣で留任が決まると、彼はハータミー大統領の国会演説に涙を流していたものである(このシーンはテレビで放映された)。

 以前から最高指導者事務所の一員でもあったシャリーアトマダーリーは、ハータミー大統領の特別代表としてエヴィーン刑務所に派遣され、アクバル・ギャンジーをめぐる状況の改善のため、同氏と面会したことがある。また彼は、商業相時代に改革派の次官や局長を登用、さらにイランのWTO加盟へ向けて準備作業を行った実績もある。

 ▼ モハンマド=ホセイン・ターロミー

 最後の外交戦略評議会委員は、モハンマド=ホセイン・ターロミー氏である。彼は同評議会委員のうち唯一の宗教指導者出身の人物で、ゴムのハッガーニー校〔*〕で教育を受けている。
〔*註:1963年に設立されたエリート養成的な神学校で、プールモハンマディー内相やエジェイー情報相など、国家の中枢を担う宗教指導者を多数輩出している。同校の設立者の中には、現在護憲評議会の書記を務めるアフマド・ジャンナティー師やアフマディーネジャード大統領を含む保守強硬派の精神的指導者として知られるメスバーフ=ヤズディーなどがいる〕

 イスラーム革命指導者のイマーム・ホメイニーが、イラン国営放送の政治部局を初代大統領アボルハサン・バニーサドルの監督から外し、〔最高指導者に〕直接結びついた独立した後見人を任命する際、モハンマド=ホセイン・ターロミーは同師によりイラン国営放送政治担当副総裁に任じられた。ターロミーはその後、外務省に出向し、在中国大使及び在サウジアラビア大使となった。サウジアラビア赴任中、事故により家族数名を亡くしている。

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 外交戦略評議会の委員らの選出を見ると、完全な内閣のような様相を呈していることが分かる。つまり、軍事関係者(シャムハーニー)、通商関係者(シャリーアトマダーリー)、政治・文化関係者(ヴェラーヤティー)が議長を取り囲んでいる状態だ。各委員はそれぞれ、委員会を設置・運営することもありうるだろう。外交戦略評議会の構成・中身からは、単なる諮問的役割にとどまらない目的が構想されていること明らかだ。

 昨日、第7議会の国家安全保障・外交政策委員会のラシード・ジャラーリー・ジャアファリー委員は、記者団に対して「この評議会は、恐らく10名で構成されることになるだろう。核問題について意見を集約し、それを最高指導者に提出することになるだろう」と語った。しかし、最高指導者は指示の中で5名の人物のみを発表していることからして、同評議会の委員数が増えた場合でも、新たな委員の選出は評議会議長に委ねられるのではないか。

 イラン核問題における国家安全保障最高評議会と外務省の役割分担が必ずしも明瞭でない中、新たな機関を国の外交システムに導入することは、新たな視点、特に改革派からのそれを〔外交政策の意思決定に〕引き付けることもありうるであろう。その一方で、同評議会に「戦略」という語がつけられていることから、国の最高権威の命を受けた者たちからなるこの評議会との協調を、他の機関〔国家安全保障最高評議会と外務省〕に促すことも考えられる。

 他方、昨日アリー・ラーリージャーニー国家安全保障最高評議会書記は、同評議会事務局は最高指導者によって設立された外交戦略評議会と協力する用意がある旨、述べた。同書記はまた、国の外交政策策定との関連で、最高指導者の命により設立された外交戦略評議会についてどのように評価するか、とのファールス通信の記者の質問に、「このような評議会は、戦略的次元からこれまでずっと関心の対象となってきた」と答えた。その上で同書記は、国の外交政策の戦略的立案のために、国家安全保障最高評議会事務局は新たに設立された外交戦略評議会と協力する用意があると表明した。

 この種の機関は、他国の政治システムにも存在する。例えば、アメリカ合衆国では1921年にニューヨークを本部にした外交評議会が設立されている。この評議会はワシントンにも事務所を構えている。また同評議会は隔月でフォーリン・アフェアーズ誌を発行、サミュエル・ハンチントンやフランシス・フクヤマなどの執筆陣を擁している。米外交評議会は事実上、自律的な機関であり、国家安全保障会議や国務省から独立して、巨視的な視点からアメリカの外交政策を策定している。同評議会は執行機関への介入はしないが、実践的政策を理論的政策に結びつける役割を果たしていると言えよう。

 政治専門家は、イランで外交戦略評議会が設立されたことは、イランの外交政策に複数の声を導入する一歩となりうると評価する。ハッラーズィー、ヴェラーヤティー、ラーリージャーニー、モッタキーの4名は、それぞれ異なった政治的・思想的傾向を代表・象徴する人物として、他の外交関係者らを政治的やり取りの場へと引き込むことになるだろう。

 残るのは、イラン大統領の一部の個人的なイニシアティヴである。ハータミー時代には《文明間の対話》が、アフマディーネジャード時代には《ホロコースト批判》が、彼らのイニシアティヴとして示されてきた。ハータミー時代には、例えば外務省のモフセン・アミーンザーデ〔次官〕などの補佐官によって、またアフマディーネジャード時代にはサイード・ジャリーリー(外務次官)やモジタバー・ハーシェミー=サマレ〔大統領補佐官〕、ゴラーム=ホセイン・エルハーム〔政府報道官〕、マスウード・ザリーバーファーン〔大統領補佐官〕などの補佐官らによって、彼らのイニシアティヴは採用されており、いずれも〔正式な〕行政組織の外部で策定されたものである。

 一部情報筋が伝えるところによれば、アフマディーネジャード大統領のブッシュ米大統領宛の書簡について、モッタキー外相ですら書簡を送付する数日前になって一般的な会議の席上ではじめて知らされたとのことであり、その際も書簡の詳細についても、それが誰宛なのかについても、言及はなかったという。

 〔最高指導者のイニシアティヴで〕《1400年〔西暦2021年〕までのイランの展望》と題された文書が公表されたことで、政府は国の主権の執行機関としての立場に制限されたように、外交政策に関する戦略評議会が設置されたことで、選挙による政権担当者の交替に左右されることのない外交路線を、今後政府は受け入れざるを得なくなるだろう。果たして、政府はこの評議会に服従するのだろうか。イラン核問題は、このことを探る最初の試金石となろう。

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:2867 )