論説:エジプトの体制並びにメディア批判
2007年06月09日付 al-Quds al-Arabi 紙

■ 内務省と国家治安機関の親愛なる皆様、ご協力ありがとう、また次の作戦で。

2007年06月09日付クドゥス・アラビー紙(イギリス)HP1面

【ホウェイダ・ターハー】


1.祖国への愛

国家諜報機関に対する「畏敬の念」というのは、エジプト国民の意識、個人並びに集団としての心理の中に、幼少時より育つものである。少なくとも我々の世代とそれに続く世代ではそうだ。諜報機関は、エジプトに対し悪意を持つ異物をいたるところで警戒するという任務についている。この機関に対する我々の感情は、単なる敬意ではなく、悪から守られている子供達に必須であるところの愛情を経由して「祖国愛」というものに至っている。この国家機関がエジプトを悪から守り続ける限り、持続する愛である。過去数十年にわたり、エジプト国民に対し宣伝されてきた英雄譚が、この愛をさらに強固なものにする。イスラエルはエジプトを待ち受ける唯一無比の敵であり、従って、この敵からエジプトを守るという崇高な任務にあたる機関へのエジプト人の愛は絶対である。メディアももちろん、これらの英雄譚、自己犠牲の精神を喧伝するにあたり多大な役割を果たしている。成功した対イスラエル軍事行動の作戦名などが、一般エジプト人のお気に入りの名前となるほどに。それらが多少の誇張と共に人々の間に広まる一方、それと同じ扱いをされないストーリーも多々ある。原因としては、文芸界とメディア界の不行き届きが考えられるが、その機関が崇高なる国家機密に関わるからとして、取り扱いを拒否する場合もある。しかしともかく、文芸並びにメディアの働きによって、エジプトの人々と「彼らの治安機関」の間にはこのような調和の取れた「関係」が築かれてきた。つまり、この感情(愛)は、それがエジプト人のための治安機関である限り、維持されると思われる。しかし、その機関の任務がエジプト人に敵対するものとなった場合、話は別だ。


2.祖国への憎悪

「国家治安」機関の話となると、エジプト国民の心理を支配するもう一つの感情がある。対イスラエル作戦における英雄行為の話が人々の賛嘆を呼び覚ますのと同じく、「国家治安機関による対国民的英雄譚」は、不正で強圧的な政権に対する憎悪、怒り、恐怖、無力感、屈辱感等を人々にもたらす。その政権は、イスラエルに対抗する時のように明確な目的を示す事なく、国民に対し力を行使する。我々の多くが、この専制機関の制服をまとうエジプト人同胞により、「非常な恐怖」を経験している。そして問う。「何故、同じエジプト人にこんな仕打ちができるのか?」、「何故、エジプト人がエジプト人に対し蛮行を働かなくてはならないのか?」。国民を支配し、殺戮し苦しめるような者のために動く事は、エジプトの治安に背かないのか?エジプトの安全を売ることにならないのか?「彼ら(虐待される側)の罪状」といえば、大統領に反対したとか体制を批判した等で、時には反対も批判もしていないという人も含まれる。彼らは一般市民以外の何者でもない。この時点で、国家治安機関は、エジプトを支配する人々をエジプト国民から守るようになる。この任務には、警察や他の内務省機関も絶大な誠意を持ってあたっている。この人々にとって、国とはその元首個人であり、元首とその追随者を守る事が国を守る事なのだ。元首をイスラエルから守るにあたり自己犠牲も英雄行為も必要なくなった時点で、彼らは、閣下を国民から守るべく、崇高とはいえない努力をするようになった。

人としての尊厳に相応しい真の自由に少しでも傾倒すると、祖国に背いたとみなされ抑圧される。その尊厳を踏みにじられ、将来を破壊され、家族と自身の生死を支配される。誰のためにか。国家元首とそれに従う人々の安全ため?それとも、治安機関の安全のためか?体制に益するよう彼らは、国民に対し卑しい任務を遂行しているのか?彼らのお決まりの言い草、「エジプトの名誉を損なった」などに世間は皮肉を覚える。エジプトの名誉と体制の名誉の違いが我々にはわからない。国への愛をもって、エジプト人は長らく、敵から祖国を守るため自らを捧げる同胞に愛を注いできた。しかし、専制に対する憎悪が今、エジプト人をして自分達の体制を憎ませている。あるいは、これは祖国への憎悪だろうか。どこで祖国と体制を区別すべきか不明であるからには。「この国から出たい」と言う人の何と多い事か。なぜ我々は、この美しき「世界の母」を去りたがるのか。そこで起きる蛮行故に、我々は祖国を憎むようになったのか。それとも、祖国の美と蛮性の間には区別がなくなったのか?


3.祖国の報道

この国の報道界で政権に奉仕する人々は、特に惨めなわけではない。彼らを嘲ったり見下したりする人はいない。治安関係者のために、彼らが、笑いを誘うやり方で真実を追究しようとする時に惨めさが現れる。治安機関は、エジプトの報道機関のほとんどを握っており、彼らの言う事を人々が信じるものと思っている。例えば、番組司会者が、他局の未編集テープについて「不明の筋から入手した」と言う時、我々は笑いを禁じえない。そんな事を信じるほど馬鹿正直な人間がいるとでも。少なくとも二者、治安機関と国民は、その「不明の筋」が何であるか知っているものだ。

エジプトで最も伝統ある雑誌を「研究誌」へと変えるのに、組織的努力をしたジャーナリスト達もいる。かつてエジプト人達に思想を伝え、国民の声、囁きや叫び、苦悶と喜びにのみ耳を傾けていた雑誌が、調査研究などと称して滑稽な言葉で語るようになった。そして、従おうとしない自由な精神に対する嫌疑を広めるようになる。これらの嫌疑は、そのジャーナリスト達が享受している文明が遅れている事を示すだけである。世論の形成という点で言えば、職業意識の上でも遅れていることになる。これらの嫌疑に基づき、彼らは「エジプトの名誉を損なう」社会、政治問題を調査する。スパイ達の間で、職業的観点からも道徳的観点からも不十分な調べ方で、あたかも人々がそういう戯言を信じるかのように。少なくとも職業人であるはずの誰が、人々にそんな嘘を聞かせたがるのか。しかし、ここまで惨めなレベルにいたって、私が言えるのは「恥を知れ」ぐらいだ。

(後半略)

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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:11107 )