論説:武力行使に至ったハマースの心理
2007年06月23日付 al-Quds al-Arabi 紙

■ ガザで何が起きたのか?ハマースは、同胞団思想である「メッカの時代」に終わりを告げたのだ。

2007年06月23日付クドゥス・アラビー紙(イギリス)HP論説面

【ウサーマ・アブー・イルシード】

ほんの1週間でハマースは、ガザのファタハとそれに従う治安組織を徹底的に敗北させた。6月14日木曜、市内南西の治安予防部隊拠点が陥落、この軍を指揮してガザを支配していた古参の3人、ムハンマド・ダフラーン、ラシード・アブー・シバーク、サミール・マシュハラーウィーの伝説は崩れた。6月15日金曜の朝と共に、ハマースとイッズッディーン・アル=カッサーム部隊の名で知られるその軍事部門、そして実権を持つパレスチナ内務省に従う軍事組織がガザとその境界を掌握、マフムード・アッバース大統領邸、並びに大統領親衛隊を陥落させた。

最早広く知れ渡っているこれらの情報から始めた理由は、この中に、人々が気付いていない、あるいは見て見ぬ振りをしている指標が潜んでいるからである。

ハマースが実際、ガザでファタハに対抗し得る程の武力を持っていたのなら、何故彼らは15ヶ月もの間、ファタハと大統領側の挑発や陰謀に耐えてきたのか?例えば、2006年12月14日ラファハ(エジプト沿い)国境経由で帰国したイスマーイール・ハニーヤ首相に対する暗殺未遂という犯罪に何故目をつぶったのか?何故、2月のメッカ合意を受入れたのか。それは、2006年国会選挙の勝利によって生じた(ハマースの)当然の権利を削減するものであったにも関わらず。それ以前にも、大統領派のために、内閣、果ては議会の職権や任期まで譲ってきた。どういう訳でハマース政府幹部や議員、政治及び軍事指導者らは、ファタハの干渉を我慢してきたのか。

こうして見ると、ハマースは国会選以前から充分な軍事力を有していたにも関わらず、ガザでファタハ権力機構に対してクーデターを起こすという決断は、これまで成されなかったことが分かる。ハマースは、地区選挙で適当にあしらわれるのにじっと耐えてきた。特に2005年終わりのラファハ地区選挙で。また、国会選挙も、ファタハ内部の都合で幾度も期日が繰り延べられたというのに怒りを抑えてきた。過去、ファタハは、PLO再建という名目の元、彼らがパレスチナ問題とその人々を唯一代表しているのだという言い分で、ハマースに一切の政治参加を許さなかった。分別を維持し自制を効かしてきたハマースは、ファタハの侵害が度を越して、メンバーの粛清にまで至るのを目の当たりにした。幹部クラスにまでその侵害は及び、ある時は、前出の治安予防部隊拠点前をハニーヤ首相が通行するのを妨げ、首相側が譲歩しなければ危うく流血沙汰になるところだった。

これは、ハマースにガザの軍事的制圧という考えがなかった事の表れである。しかし、2007年元旦のファタハ記念集会でダハラーンが言ったように無能で意気地がないからではない。ダフラーンは、できるものなら発砲してみろとハマースを挑発したが、今回の出来事は、そうしたいと思えばする力がハマースにはあった事を示している。彼が数ヶ月前にガザを逃れていて幸いだった。さもなければ今頃、その挑発の報いを受けていただろう。

それでは何が、ハマースに軍事的解決の必要性を納得させるに至ったのか。政治指導部が軍事部門に対するコントロールを失っていたわけではない。劣勢が明らかになった後ファタハは一方的に休戦を宣言したが、それに対する拒絶を伝えたのはハマース軍事部門ではなく、政治部スポークスマンのファウジー・バルフームだった。また、戦闘中、ハマース政治部門の幹部は姿を見せず、声明も出さなかった。軍事部門にその任務、ハマースが名付けたところの「反乱者達」の掃討を完遂する機会を与えた事は明白である。政治局長ハーリド・マシュアルが声明を出したのは6月15日、つまりガザ制圧が完了した後である。マシュアルは、ガザの戦闘はファタハではなく、治安組織を通じて国民合意の試みを妨げる派閥に対するものとし、各種の問題、特に治安に関わるものが解決され次第、挙国一致内閣体制に戻ると述べたが、裏切られた思いのファタハは、大統領顧問アフマド・アブドッラフマーンを通じてこれを拒否した。

もう一度、今回に限りハマースがガザで軍事的手段に訴えたのは何故かという疑問に戻ろう。

多くのメディアで、米イスラエル、そして幾つかのアラブ諸国及びパレスチナ派閥が、選出されたハマース政府とガザにおけるハマース勢力そのものを放逐しようと、一年以上にわたり計画を練っていると言われてきた。この計画の詳細は、米イスラエルを含むアラブ内外の新聞で報じられ、ハマースに対して行動が起こされる期日はこの夏、恐らく7月であろうという点で一致している。ハマースももちろんこれらの情報を得ている。基本的にメディアの噂話を取り合わないハマースだが、実際に、イスラエル並びにエジプトに接するガザ国境を越えて、武器を積んだトラックが入ってくるのを見たら、それが昼となく夜となくファタハ勢力機関へ向かっているのを知ったら、どうだろうか。件の新聞情報は、ダフラーンが100%彼の側近と大統領派から成る新治安機関を設置しようとしており、数百名を軍事教練のためエジプトなどのアラブ諸国へ送っていると伝えている。

また、6月18日月曜、米政府は、アブー・マーゼンが組織したパレスチナ臨時政府に対し封鎖解除を決定した。ライス長官ははっきりと述べている。「責任ある治安機関を設立しようというアッバース大統領の努力を支持するため、我々は8600万ドルを既に計上している。現在の新パレスチナ政府に対し、米連邦議会で協議の上、この援助が実質的に機能するよう働きかける予定である。」

6月14日木曜付けドイツ紙は、ブッシュ政権が長期にわたりパレスチナ内政への干渉を画策し、ファタハ内の米国寄り派閥にハマース軍事部門を粛清させようとしていたという分析を掲載している。同紙のコメンテーターによれば、この分析は、米イスラエル間の軍事連絡責任者、キース・デイトン将軍が5月終わりに米連邦議会中東委員会で述べた事に基づいている。将軍は、ファタハ内の派閥に対する合衆国の影響力を認め、近々ガザ情勢が限界を迎える事を示唆している。また、米国防省と中央情報局がファタハ内の合衆国とイスラエルの同盟者を充分に後援している、アッバース大統領派のハマースへの対抗意識は現米政権にとり戦略的利益となる、1996年以来、ハマースとの軍事対決に備え、エジプトとヨルダンで大統領親衛隊の訓練を行うため、5900万ユーロ相等を連邦議会から予算として得た、などを述べた。同紙は、ファタハに充分な支援が与えられたにも関わらず、よく組織され武装しているハマースを戦闘によって潰し得ず、このためCIAは、ファタハ側にハマース幹部拉致暗殺用の部隊を組織するよう指示した。同紙によれば、この暗殺部隊とムハンマド・ダフラーンが統括する大統領親衛隊との繋がりは濃厚である。また、イスラエルの大学識者のコメントとして、ダフラーンは、ハマースに限らず対イスラエル抵抗勢力を粛清するよう、CIA他の米組織から任じられていた旨報じている。

また、ロイターの占領エルサレム特派員による、「ガザ以後、誰が誰を放逐しようとしていたのか?」と題された6月17日付記事は、ハマース主導のパレスチナ政府をアッバース側が退けるべく手助けするというアメリカの計画は、少なくとも1年前に開始されていたことを示している。今週初めの、西側、イスラエル、パレスチナの公式情報源に基づくロイターの分析は、アッバースによる非常事態宣言とサラーム・ファイヤードの任命は、単にハマースの攻撃に対処したものではなく、過去数ヶ月にわたる極秘交渉と合衆国によるアッバース側の扇動を裏付けるものとしている。結局のところ、ワシントンは隠そうとしたが、ハマースと対決するようアッバースに圧力をかける勢力がファタハ内にも存在した。今回の事件は、ハマースにガザを完全掌握させ、アッバース勢力をガザに構築するという合衆国とその同盟者によるプランを無駄にしたのだが、米側にとって全く予期できなかった事とは言えない。西側の識者の多くが、事件を、ワシントンのファタハ支持を見たハマースによる予防的攻撃であり、ハマース内部にも時期が適切でないとして反対する勢力があったとみている。また、ロイターが米国の元エルサレム領事、現アッバース大統領顧問で長らくワシントンによる圧力グループの一員である、エドワード・アビントンから得た情報として、2006年の選挙でハマースが勝利した直後ブッシュ政権はその意向として、ハマースは非合法組織でありそれを政権から追うのに尽力を惜しまないと伝達している。彼によれば、昨年7月の会合で、アッバースは、内閣を解散し臨時政府を組織するよう米側から圧力をかけられつつもそれは内戦に結びつくとして拒否した。アッバースは対決を望まなかったが、結局そうせざるを得なくなった。ロイターは、アッバースが早くも先週、新政府を組織しえたのは、大部分の用意が既に整っていたためとしている。西側とパレスチナ側にも、ワシントンが、3月のハマース・ファタハ連立政権を無効にするためだけに火に油を注いだという議論がある。そのために米側は、ダフラーンに治安を任せガザにファタハ軍を展開するようアッバースに要請し続けたのだと。

クリントン時代の中東特使でアメリカのイスラエル弁護者の1人であるデニス・ロスは、ハマースとファタハの決定的衝突の5日前、6月4日付けのワシントン・ポストに、「ハマーススターンの亡霊:ガザのイスラム主義者の勝利に対してはより多くのことが成されるべき」と題して寄稿している。その中で彼は、和平プロセスの打開策を巡ってではなく、ガザでファタハとハマースの間で行われる戦闘について、ラーマッラーやエルサレムで行われた協議に出席したとはっきり述べ、イスラエル、(アッバース派の)パレスチナ側共に、ガザが実質上イスラム主義者の手に落ちた以上、その帰結にどう対応するかを問題としていたと伝えている。彼によれば、イスラエル・パレスチナ双方から、ガザとシナイを結ぶトンネル経由で密輸される武器や資金をハマースに受け取らせないよう、エジプトが協力すべきという声が上がった。パレスチナ側は、ガザでハマースが実現した事を西岸で実現させない事を急務としていたが、ロスは、パレスチナ側出席者の(ハマース勢力に対する)恐れが、ファタハ内部での個人間の抗争を一端止めさせるほど大きいと観察している。また、パレスチナ側は、西岸を経済、社会、行政的な成功例としたいとして、失業率70%というガザの陥っている苦境を上げつつ、ハマースには麻痺して秩序を失った国を引き継がせ、我々は別に、少なくとも経済、治安の点でヨルダン・イスラエルと合意することを目指した国をつくる、ハマースがガザで抵抗するなら、三カ国(イスラエル・パレスチナ二カ国共存案ではなく、イスラエルと二つのパレスチナ)共存案を目指してもよいとまで言ったと伝えている。

要するに、西岸とガザを切り離す計画は以前からあったという事だ。ファタハがガザで負けた時点でそれは二つの別々の存在となった。欧米諸国、イスラエルは、西岸に臨時政府が出来るや否や援助再開を宣言した。計画通りである。ハマース故に封鎖されて暮らすガザの住民が、援助の恩恵を得る西岸を見れば、ハマースは遠からず大衆の支持を失う。

6月19日(火)、ブッシュ大統領とイスラエル首相のホワイトハウス会見を通じて出された声明は明確である。ブッシュは、アッバースとファイヤードがパレスチナを指導するにあたり支持されるよう希望するとして、ガザの「過激派」との戦闘を、彼とオルメルト首相が戦略的に補佐すると言った。またオルメルトは、穏健派、アッバース派を支持するとして、アッバースとは協議の用意があることを示した。

全てが、米・イスラエル、及び幾つかのアラブ諸国に支持されたファタハとアッバース側に、ガザでハマースに対しクーデターを起こす用意があったことを示している。これについて多くの社説が書かれているが、ファフミー・ホウェイディ教授による、「ガザで起きた事を理解する試み」が最重要だろう。ハマースは、既に避けがたくなっていた決定的対立の時期を早めたにすぎない。ハマースは決断せざるを得なかった。パレスチナ政治を合法的に代表しながら、その大部分が細々した組織や米イスラエルと繋がっている派閥から成る治安組織の抵抗に遭っていたのだ。

しかし、封鎖措置を通じて、(大統領派)パレスチナ、アラブ諸国、イスラエル、欧米の恫喝の声がはっきりしてくる中で、ハマースが、ガザを支配する故に支払う代価の性質を理解しなかったという事があるだろうか?

彼らが、ガザ制圧に対する国内、アラブ地域及び国際的反応を予期しなかったとは考えられない。365キロメートル四方の狭く小さな土地に150万の住民が、陸海空に加えてパレスチナ内部から封鎖される。一方、西岸では西側の援助と、2006年3月のハマースの勝利以来イスラエルが支払いを差し止めていたパレスチナの税金の返還が開始される。イスラエルがコントロールする陸海の国境封鎖には、エジプトの兄弟達も加担している。

更に、ガザがハマースの単独の支配下に入るという事は、それが、イスラエルにとって、あるいは米イスラエル、エジプト等の支持を受けるパレスチナ派閥にとっては、より露出された容易な軍事目標になったという事である。

さて、何故ハマースはこれら全てにも関わらず軍事手段に訴えたのだろうか。上述のように、ファタハにとっては、米イスラエルそして幾つかのアラブ諸国の支持の元、軍事衝突の段階を迎えるというのは既に決定事項だった。ハマースは、その期日を早め意図的に結果を変えたのである。ファタハとその連携機関の勝利から、ハマースの勝利とその壊滅計画の挫折へと。ハマースは、意識的にかどうかは分からないが、同胞団的思想で言う「メッカの時代」に終止符を打ち、その終わりの始まりを宣言することにしたと言える。ムスリム同胞団の表現による「メッカの時代」とは、苦難を甘受する期間を指す。潰される運命が明らかならば、黙って潰されなくても良いのではないか。打ち負かされる事が必然ならば、敵と相打ちでもよいのではないか。ハマースがファタハとの決戦に突入する一方で、エジプトの同胞達は諮問議会選挙でエジプト政府の手により酷い目に遭わされている。より悲劇的なことに、同胞団を弾圧するエジプト政府が、ハマース・ファタハ間の汚れた仲介者となっている。1920年代の設立期以来、同胞団はあらゆる苦難に遭ってきた。彼らの英知も平安をもたらす役には立たなかった。ガザ、パレスチナの状況は、他のアラブ諸国で同胞団系列のグループが置かれている状況と異なるのは確かだが、ハマースの採った手段は、体制側による抑圧に対抗する別の道を考えるきっかけとなるだろう。暴力に訴え、結果として敗北するだろうという意味ではない。少なくともハマースは、ゲームのルールを変えようとしたのだ。体制側との緊張関係を公にし、幅広い市民による不服従の形にする事。これは一考の価値がある。ガザで、ハマースがその代償を省みず行ったことは、メッカの時代に終わりを告げた。預言者ムハンマドの時代のそれは13年間であったが、ハマースの場合もPAが1994年に入って以来13年が経っている。

(後半略)

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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:11229 )