コラム:宗教と戦争について
2007年07月14日付 al-Quds al-Arabi 紙

■ 宗教は戦争を招くのか?

2007年07月14日付クドゥス・アラビー紙(イギリス)HP1面

【アフマド・マンスール】

数日前ベイルートのハムラー通りで、若い男女が私を呼び止め、宗教が戦争を招くのだろうか、という興味深い質問をした。宗教関係の衛星放送局による番組の一環だった。しばし考えたが、やや極端で柔軟性に欠ける信仰心しか知らない国で、それを議論するのは不可能だと思った。この小さく、警戒心に満ちた国では、言葉はそれを発する媒体を通じて千の仮面を纏う。それがしばしば、意見を述べた者にとっては惨事となる。礼儀正しく質問してきた女性に私は言った。「魅力的な議題ですが、総合的に扱わなければ罠か地雷のような質問で、2、3分で答えられることではないと思います。静かに半時間ばかり話し合うというのはどうでしょうか。」彼らのプログラムでは人々の自発的で自然な回答を求めているので、それはできないというのが彼女の返事だった。しかし、現下の情勢では益々重要と思われる質問であるので、この紙面を借りて答えてみようと思う。

まず、なぜ宗教があるのかという点について、宗教的観点で答えると、社会が不正に満ち強者が弱者を虐げるようになると、神が預言者を送りその社会に自然で清い状態を取り戻させようとする。これは物事のバランスを取るためで、預言者の多くは苦難に遭い殺されるが、神はまた新たな使者を送る。これが、ユダヤ、キリスト、イスラム教を初めとする一神教の考えである。

預言者達の多くは、人間の生得的なモラルに訴える事を重視し、古代のエジプト、ギリシャローマ、ペルシャ文明に見られるような地上の王国をつくるようにと呼びかけたわけではなかった。イスラームの場合の特徴として、ジャーヒリーヤと呼ばれる無明の時代があり、その間、預言者達は亡き者とされる運命にあったが、預言者ムハンマドが奇跡的に、追放とあらゆる迫害を生き延び、聖典の民、つまりユダヤ教徒、キリスト教徒と対話し協定を結ぼうとした。不信仰者や多神教徒、偶像崇拝者らと比較すると、彼らは自然な同胞とみなされたからである。しかし、彼らは常に協定に忠実なわけではなかった。そして、彼らがアラビア半島に何百年も前からいる事を考えれば、預言者ムハンマドは、偶像崇拝者達との戦いにおいて、その存在を無視するわけにはいかなかった。

ハディース(預言者ムハンマドの言行に関する伝承)によれば、人は生まれた時は真っ白で、それがユダヤ教徒になるか、あるいはクリスチャン、ムスリムになるかは両親による。上部構造は既存社会に影響されるものであり、既存のものは、これまでの伝統を失うまいとして、自身から生まれた新たなものに抵抗する結果、新旧の闘争が起きる。新しいものが勝つと、今度はそこから生まれてくるものと、解釈を巡って争いになる。イスラームは、勝利の後、73の宗派、共同体に分かれた。キリスト教、ユダヤ教も様々に分派している。

このように分かれたイスラームの宗派は互いに争い、キリスト教でもそうであったが、イスラームの中のある宗派と一部のキリスト教徒が争う事もあり、有名なものとして、ヨーロッパのクリスチャンと東方のムスリムの間に起きた2世紀にわたる十字軍戦争がある。しかしこの間でも、「敵の敵は友」の法則に則り、それ以外のキリスト教徒がムスリムの軍列に加わることもあれば、逆にムスリムがキリスト教軍に見方する事もあった。イスラーム軍に一端敗北したペルシャやトルコの民が、後に勝利した時にはイスラームの擁護者となり、アラブに代わってその旗印を掲げて征服戦争に出たり、身内、つまりシーア派のイランとスンニー派のトルコの間で争ったりもした。太古の昔から、為政者は宗教を必要とするものであり、両者は補完的な関係にあった。スペイン、フランス、イギリスの帝国主義も、十字架や宣教師と共に進出して行った。

宗教それ自体の本質に立ち返ってみれば、人と人の間の連帯、友愛、公正を呼びかけるものであり、真のクリスチャン、ムスリム、ユダヤ教徒の間には敵意は存在し得ない。しかし残念な事に、宗教は世俗的、物質的な事象と絡み合っており、それが唯一神を拝む人々の清廉さを汚す。政治とは腐敗するものであり、それを一掃しようとする者はいない。文化的な遅れや表面的な信仰が、宗教を預言者のレベルから利害に左右されるうわべだけのレベルへと貶める。また、経済要因は人間社会に多大な影響を与える。壊滅的な戦争を起こしたナチズム、ファシズム、あるいは共産主義は、現代の世俗的宗教とも言えるが、それらの指導者はその宗教の名の下に彼らの目的を達しようとする。

政治経済的利益を求める外国の介入は、秩序を乱し社会を混乱に陥れる。我々の地域に見るような殺戮が起きると、人々は未だに繰り返し他宗教への呪いを口にする。イラクのように、これまで内戦の経験のない国が、スンニー、シーア、クリスチャンの間で争い、各派はアラブ化の傾向を強め、それ以外、主にクリスチャンは国を去る。スンニーの街サーマッラーにあったシーア派モスクの爆破以降、こういう事になった。

世俗的宗教、つまり民主主義的西欧が理解するところのイデオロギーや政党と比較してみれば、現状は少し明らかになる。西欧発の政治信条がアラブ世界に現れた時、それらは新たな政治理論という衣を纏っていた。しかし、ひと時広範に行き渡った後、時代の要請を掴み損ね、お払い箱となった。アラブの共産主義者がムスリムを共産党に入れようとして、マルクスもムハンマドと同じくらいいい奴だと言ったら、相手は、それなら自分達はムハンマドでいいと言ったという話を思い出す。

しかし欧米でも東方でも、一般大衆を動員するために、政党はキリスト教、あるいはイスラームという言葉を党名に冠していた。天上的な意味と世俗を調和させようとすると、人々は両極に分かれる。中東で、ナセル主義、バアス党、共産党が没落した後は、地域の歴史地理、並びに言語、コーランを拠り所とする各種のイスラーム運動が勃興し、1979年のイランイスラム革命に至る。これは世界でも稀有な事で、合衆国は、スンニー派のエジプト、サウジ、トルコ等の国々による別のイスラム勢力を創出して対抗しようとした。

ここでレバノンに戻ると、それは、様々な国、宗派、政党が交錯する場であると共に、古来から異端として放逐される共同体の避難所であった。中央政府から離れるという事は、その腐敗から距離を置く事であり、レバノンは、時の為政者に満足できない様々な宗派、それぞれの宗教に殉じる人々のための場でもあった。大多数が現代まで伝統的な生活様式を守っており、レバノン社会とは実は、20近くの異なる社会の集合体である。歴史とは各々の宗派史であり、多くの場合、封建領主が宗教に対して支配的役割を果たしてきた。これが数々の戦争や殺戮を生んだのであり、この国が乗り越えようとする度に新たな形で戻って来る問題である。

レバノンでは公式には封建制度は終了したことになっているが、封建領主たちは、各々の宗派に合わせて西欧風の現代的な政党に衣替えしただけで、内実は変わっていない。従って闘争の要因はそのまま残っており、地域情勢や国際情勢も同様である。そのため、人々の目には宗教が原因で人々、あるいは民族の間に戦争が起こるように見える。

イスラームにおける宗教とは世俗を離れた努力の意であるが、イスラム教はそれを根絶やしにしようとする敵と常に相対しなくてはならなかった。中国から大西洋にまで渡る征服時代の血みどろの戦いは、人間の解放のためであった。しかし最大のジハードは、個々人が内面を清め、自らの本質を地上におけるアッラーの似姿とすることである。キリスト教でも預言者は、彼の王国は地上には無いので、シーザーのものはシーザーに、神のものは神に返すようにと言っている。一般の多くの人が思うように宗教自体は無実である。しかし、宗教を奉る人間の多くが、自分の利益のために内外の戦争に向かう。

諸々の宗教を創造主へ至る道とみなすと、レバノンという小さく美しい国の経済社会、文化的条件を変更しない限り、それらの道を統合する術はないようだ。1948年1月30日、ガンジーはインドにおける宗派共存を擁護するメッセージを書き、その19日後に自身の出身宗派であるヒンズー教徒に暗殺された。民主主義国家であるインドは、未だに宗派政党による争いに明け暮れている。レバノンのような小国が、東西の狭間で、そのような巨大なメッセージを抱えた場合どうなるだろうか?

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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:11398 )