大統領訪米の成果:サーデグ・ズィーバーキャラーム
2007年10月01日付 E'temad-e Melli 紙

サーデグ・ズィーバーキャラーム

 政府が国民の人気と同調を得ようとすることは、殊更取り上げるまでもない普通のことであり、ある意味自然なことである。どの政府も大抵、国民が政府の業績を評価し、支持を与えてくれることを強く願っている。反対に、国民が政府の反対者・批判者たちを快く思わず、失敗続きの能なしと評価することを願ってもいる。

 公衆の面前で自画自賛する代わりに、自らの失敗と弱点、未熟さを積極的に認め、自らの成功を宣伝しようとしないような政府にお目にかかることなど、ありそうもない。反対にいかなる政府も国民を前にして、つねに自らの成果や成功を強調する一方で、弱点や不成功にはフタをしてあまり触れないようにする、というのが常である。

 これらは全て、自然なことである。少なくとも、〔自らの成果を〕宣伝をしたり、世論を引き付けるべく努力したり、自画自賛したりすることにおいて、「天使」であるような政府など存在しない。

 しかしここで問題なのは、政府が国民向けに行っている宣伝の影響を、政府自身が受けてしまうことがあるということだ。このような現象が起こる可能性は、政府がマス・メディアを牛耳り、反対者や批判者たちに活動の余地があまり残されていない社会において、特に高い。この現象は、要するに政府自身が、当初国民向けに宣伝した内容を信じるようになってしまい、徐々に自らの宣伝に沿って物事が正確に生起するかのように思ってしまう、というものだ。

 外交儀礼に反し客に対する礼儀に欠けた、コロンビア大学における我が国の大統領に対するアメリカ人の振る舞いは、それ自体非難されるべきであろう。しかしそれとは別に、アフマディーネジャード氏のニューヨーク訪問と、その際に行われたコロンビア大学及び国連総会における同大統領の二つの演説は、彼がこのような状況に徐々に陥りつつあることを示している。

 政府高官らは大統領の二つの演説が、強権的抑圧主義や帝国主義、シオニズム、その他の闇の勢力の時代の終焉を明らかにし、国際世論も世界の抑圧主義者による大規模な宣伝にもかかわらず、やっと真実の光を手に入れ、いかにイラン・イスラーム共和国の立場が正しく、その反対者たちは誤っているかを感得したに違いないと信じつつあるようだ。政府高官らは一般の国民以上に、イラン大統領のニューヨークでの発言が、真実の光を闇に包まれた心に投げかけ、世界の人々を怠惰な眠りから覚ますことに成功したと信じているように見えてならない。アメリカ、シオニスト、イスラームの敵、真理の敵対者が革命的なイラン大統領の雄弁なる議論・発言を前に、不意を突かれ、顔色を失い、白旗を揚げたと、彼らは信じているのだ。

 イラン国営放送や政府系のプレスなどはほとんど、この二つの演説の後、世界の人民が群れをなして真実へと歩み出しているかのように報じている。アメリカやその他世界各地の人々の多くが、イラン大統領の発言に注目していたことは、疑いを入れない。彼の発言は、その他の国々の首脳たちが語る言い古された一般論とは、明らかに異なるものだ。ドイツの首相、フィンランドの大統領、日本の首相、ギニアビサウの外相、フィジーの国王、バーレーンの首長、インドの副大統領などが、世界の注目を集めるような、これまでにない新鮮な話をすることなど、どうしてできようか?自然環境問題に花束を贈り、暴力とテロを非難し、世界の人々に平和と寛容を呼びかけ、敵対する国々を対話と話し合いに招き、世界のより公正な通商・経済関係を願い、時に女性やマイノリティ、難民、その他の弱者たちの権利保護に言及する。この手の「よいものはよい、悪いものは悪い」といった、似たような話を繰り返す以外に、彼らには果たしてどのような話ができるというのだろうか。

 それゆえ、トーゴの大統領やベルギーの首相よりも、アフマディーネジャードの演説に関心が集まるのは、当然であろう。しかし関心が集まったからといって、アフマディーネジャードの演説の正しさが必然的に示されたなどと勘違いしてはならない。同様に、関心が集まったからといって、聴衆たちが彼の発言を認め、怠惰な眠りから覚めたなどと理解すべきでもない。実際、もしわれわれがアフマディーネジャード大統領のニューヨーク訪問と、同大統領のコロンビア大学ならびに国連総会での発言を、政府の騒がしい宣伝から離れて、少しでもより現実的で公正な視点から眺めるならば、大統領の発言やニューヨーク訪問について、異なった評価を下すことになろう。

 もちろん、アフマディーネジャードの発言がイランにとって利益となるのか、害悪となるのかをめぐる判断は、国際社会におけるイランの立場をどのように描き、想定するかに依存する。もしわれわれがイランについて革命的でラディカルな姿を望むならば、アフマディーネジャードの訪問は全くの成功であったといえるだろう。彼は世界に対して、イランの立場がいかにラディカルで革命的で、理想主義的かを示すことに成功したからだ。

 しかしもしその反対に、国際社会におけるイランの立場として、穏健で、中道的で、公益を重視し、柔軟な姿を望むならば、アフマディーネジャードの発言はそのような目的に貢献しないばかりでなく、180度反対の姿を世界に示したと言えるであろう。彼が世界に示したメッセージとは、イランが話し合いと妥協の徒ではないということ、和解と合意と中庸の徒ではないということだった。

 アフマディーネジャードが世界に示したイランとは、理想主義的で、ラディカルで、革命的で、非妥協的なイランだった。ここでわれわれが問わねばならない基本的な問いとは、この二つの姿のうちいずれが長期的にイラン国民の福祉と利益にとって役立つのか、ということである。

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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:12064 )