アメリカ大使館占拠事件28周年記念コラム4:「アメリカ大使館占拠28周年における問い」(マルヤム・シャバーニー)
2007年11月04日付 E'temad-e Melli 紙

 数年前、改革派が政権を掌握していた頃、新聞記者の友人が外務省の改革派幹部の一人と持った対談について語ってくれた。友人はそこで、その人物とアメリカ大使館占拠事件に関してインタビューを行った。その改革派幹部自身、アメリカ大使館占拠事件に参加した「イマームの路線を支持する学生」の一人であったが、ところが今や25年が経ち、「お願いだから、私の名前は伏せておいてくれ」、「私に関しては専門家・外交官としてのみ、質問してくれ。過去のことにはふれないでくれ」などとしきりに強調していたという。

 実に奇妙である。彼は自らの過去について言及される心構えさえも出来ていなかったというのに、その一方で自らと彼の友人らが25年前とった行動については正当化・擁護しようとしていたからだ。その彼が外務省の一外交官として、他の者が主張する以上に、アメリカとの話し合いの必要性を語っていたというのは、まさに皮肉としか言いようがない。この改革派外交官の発言の中には、もはやアメリカ帝国主義・覇権主義に対する闘争についての話はなく、若かりし頃の左翼的な話しぶりはすっかり影を潜め、リベラルな現実主義に取って代わられていた。

 疑いなく彼は変わったのであり、彼の変化は避けようがなかったのかもしれない。しかしここで思い浮かぶのは、次のような問いである。なぜ彼は自らの過去から逃げていたのだろうか。なぜ過去について語ったり、聞いたりしたがらなかったのだろうか、と。よもや、今日彼が語っているアメリカとの対話というものが、過去の人質拘束事件・反米主義と矛盾していないなどということがあり得ようか。まさか彼ら〔=米大使館を占拠した学生たち〕は、〔当時のヤズディー外相による〕ブレジンスキー〔カーター政権時の国家安全保障担当大統領補佐官〕との〔秘密〕会談を理由に、暫定政権をアメリカの傀儡と呼ばなかったとでも言うのだろうか。その後一体どのようにして、アメリカ大使館占拠から《文明間の対話》、《アメリカとの話し合い》にたどり着き、〔アメリカとの外交上の〕《閉ざされたドア》を開けることを追求することができるというのだろうか。このような矛盾があるにもかかわらず、彼は自らの転向を隠し、己の変化と過去の過ちについて語ろうとしないのである。

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 今日、世界のマルクス主義者たち〔=ベネズエラのチャベス大統領やニカラグアのオルテガ大統領など、中南米の反米左翼政権を指す〕に向けて友情のメッセージを送り、彼らと共に反米戦線を形成している、かのアフマディーネジャード大統領は28年前、アメリカ大使館占拠を逸脱した行動と見なし、共産主義との闘争が最優先であると語っていた学生ではなかったか。過去28年間でアメリカは自らの覇権主義をより強めたということだろうか。それとも〔無神論者の〕マルクス主義者がイスラーム教徒に改宗でもしたということなのだろうか!?はたして、彼はマルクス主義者らを不純なものと見なして、左翼の機関誌であった『鍛冶屋』や『錠前師』に対抗して、〔自らが在籍していた〕科学産業大学で友人と共に『叫び』を発行していた学生ではなかっただろうか。反左翼のアフマディーネジャードはいつ、どのように左翼になったのか。

 アメリカを闘争の対象として優先視せず、アメリカ外交官人質事件が終わるまで、占拠されている米大使館に一歩も踏み入れることがなかった彼は一体いつから、どのように反米の闘士になったのか。まさか、今日のマフムード・アフマディーネジャードは〔1980年代に首相を務めていた〕ミール=ホセイン・ムーサヴィーの左翼的政権によって提起された「貧困と富との闘い」を逸脱した議論だと見なし、手厳しい反対者の一人であると考えられていた、かのアフマディーネジャードではないとでもいうのだろうか。彼は富裕層との闘争を反イスラーム的な行動と考え、そのように主張することでイランの保守的な右翼や伝統的な宗教指導者らと考えを同じくしていたのではなかったか。アフマディーネジャードは実際、いつ、どのように左翼になったのか。

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 今日、過去30年間の左翼や右翼の活動に対して反対意見を述べ、その批判の事例として米大使館占拠事件や文化革命、その後数年間におけるさまざまな不快な出来事を挙げ、自らの考え方は国の指導者たちとは違うと主張する人がなんと多いことだろう。しかし、今日我々が知っている国民=宗教派〔モサッデグやバーザルガーンらのリベラルな路線を支持する政治党派〕の政治関係者は、ホッジャトルエスラーム・ムーサヴィー・ホエニーハー〔大使館占拠事件を起こした急進的学生らを指導した宗教指導者〕やアーヤトッラー・セイエド・アリー・ハーメネイーのような人物と共に、団結強化事務所〔大使館占拠事件を起こした急進的な学生たちの組織〕の顧問委員会に参加していたのではなかったか。まさか、彼らはこぞって米大使館占拠事件を支持して過激な行動をとり、バーザルガーン暫定政権を批判して、リベラリズムを「帝国主義のロード・ローラー」と呼んだのではなかったか。

 今日我々が批判しているところの多くの不快な事件は、〔「リベラリズムは帝国主義のロード・ローラー」という〕このようなスローガンから生じ、そういった見方の事実上の結末ではないのか。どのようにして、米大使館占拠事件に歓喜の叫びをあげ、バーザルガーン暫定政府の崩壊を祝い、それでいて20年後にはバーザルガーンの写真と名前を自らの選挙リストの先頭に掲げ、あたかも「私達は歴史の外部からやって来ました、私たちの過去には過ちはありません」とでも言うかのように、断固とした口調で「イマームの路線を支持する学生」を批判することができるのだろうか。

 はたして、多くの宗教左派の人々は占拠事件のまさにその当時、大使館の壁の内側で集まって、アメリカの人質に対する革命的な厳しい対応を要求しなかったとでも言うのだろうか。今日、文化革命を批判する人々はかつて、文化革命前は粛清を行う側に身を置きつつ、自らは粛清されるとは考えもしていなかった、まさにそういう青年・中年層にいた人たちではなかったか。一体どのようにしたら、過去の行為や考え方を忘れ、他者への批判の先頭に立ち、〔米大使館占拠事件が引き起こした〕混乱に対する自らの責任を隠すことができるのだろうか。

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( 翻訳者:中谷登紀子 )
( 記事ID:12590 )