エッテマーデ・メッリー紙社説「社会的安全計画、再び」
2007年12月15日付 E'temad-e Melli 紙

 「社会的安全計画」の新ラウンドが、社会でさまざまな反応を引き起こしている。イスラーム革命から30年近くが経った今も、女性の服装をめぐる問題はイラン社会において最大の論争の的であり続けている。

 このような中、過去のさまざまな経験が繰り返される様をわれわれは目の当たりにしているが、ここで興味深いのは、社会を監督する責任者たちのいずれもが、「社会を倫理化するために最も重要なのは女性に関連した問題に対処することだ」と考えていることだ。近年女性問題をめぐって、我が国では多大なエネルギーとカネが費やされているが、このような熱の入れようは世界でもほとんど例がないと言っても差し支えないだろう。

 社会学者や専門家らにとっては周知のことだが、規範への不注意といった一部の現象は、社会の経済的・政治的条件に根ざしている。規範への不注意が起こる政治的・経済的原因を学術的に分析し熟慮することなく、結果のみに対処し、表面的な対応に終始するならば、次の詩句のようになってしまうだろう。「そなたは自分の名誉を失い、われらに苦労をかける」!〔※〕

 他方、過去数年にわたり、犯罪と名付けることができるのか怪しいと言わざるを得ないような現象〔‥‥〕を取り締まるために、幾多の計画や作戦、アイディアが実行に移されてきた。しかしなぜ社会を取り巻く精神のあり方は、われわれの願望に沿った形で実現されないのだろうか?

 総体的に見るならば、イラン人の大半は自らの精神的、宗教的、国民的価値観・信条を守り、適切な服装や人間的な行動をわきまえた人々であると、はっきりと指摘しなければならない。そうであるならば、社会を改善し、いわゆる犯罪に対処する方法として、警察による物理的な取り締まりが適しているとはとても思われない。このような取り締まりの結果が、反作用として再び社会にはね返ってくるのではないだろうか。

 いずれにせよ、我が国の文化の監督者たちは、今一度次のように問うてみるのがよかろう。すなわち、彼らが見るところの「不快な」行動が、同じような現象を取り締まるための倫理的・精神的束縛が存在しないその他の社会と比べて、我が国では極めて多いように思われるのはどうしてか。ファッション用品の消費が、西洋諸国と比べても、イランで顕著な増加を見せているのは、どうしてなのか。イランで女性の美容整形手術が、その他の国と比べて突出して高いのはなぜなのか、と。

 今日、さまざまな生活スタイル、服装のあり方、個人や市民の権利〔を享受すること〕は、近代社会における生の基本的な原則の一つであることは明らかである。

 社会の精神的、倫理的伝統を忘れていいと言っているわけではない。しかしさまざまな社会問題、倫理的な危機、麻薬、性倫理、失業、その他諸々の倫理的問題に優先順位を付けるにあたって、これらの大問題のどこに「女性のブーツの履き方」が位置しているというのだろうか。我が国の警察は、人材の不足、先進的な装備の不備、給与水準の低さ、警察官としての職業的な訓練の不足、その他諸々の問題を抱えている。このような特殊な状況下で、警察は我が国の女性諸君の靴やらブーツやらメガネやらを監督するために、自らの力、忍耐、エネルギー、ポテンシャルを費やす余裕などどこにあるというのだろうか。警察は大変な勘違いをしているのではないだろうか。

 このような中、政府報道官は警察に対して批判的な発言を行っており、注目に値しよう。「スープ、しょっぱさのあまりコックも悲鳴を上げる」といったところか。



※訳注:この詩句はペルシア語古典詩の大家ハーフェズの詩から取られたもの。「蠅よ、鳳凰の御前はそなたがうろつく場ではない/そなたは自分の名誉を失い、われらに苦労をかける」(黒柳恒男訳『ハーフィズ詩集』(平凡社)より抜粋)。社説の著者はこの詩を引用することで、もっと大きな問題に取り組むことなく、女性の服装問題などという些細な問題にかかずらうことは、政府(蠅)の評価を傷つけ、国民(われら)の迷惑になるだけだ、と揶揄しているものと思われる。

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:12692 )