農村教員養成所の記憶――在ブルサOB・OGとの面談から
2008年04月13日付 Radikal 紙

『ラディカル2』(日曜版)掲載

もしも閉鎖されることがなければ、私たちは確実に今日とは全く異なる容貌のトルコと相対することになっていたはずの農村教員養成所は、1940年4月17日に開設された。
こどものように みんな一緒に
こどものように 陽のように 光のともるいくつもの顔・・・
その言葉は、その笑顔は、まるで荒野に咲く花のよう・・・
彼らは、運命は暗く、顔は明るく・・・
彼らは 唄を半ばでやめた
彼らは マンドリンとケマン[伝統的な弓奏楽器のひとつ]の音色を幾年も前からいまに届ける
馬車は止まった
御者が「アリフィイェ」と告げる
生まれ故郷しか見たことのない両の眼は 痩せた大地をじっと見た・・・

ファイク・アジャルは、1922年、サロニカはヴァディナに生まれた。1924年に住民交換によって、ブルサはオルハンガーズィのイェニギュルレ村に移住した。様々な新聞、雑誌に論説を発表し、彼自身の手による書籍もある。1944/45年度にアリフィイェ農村教員養成所を修了している。彼は「農村教員養成所では実務と教育が相互補完されていたのですよ。我々の一日のうち半日は教育・指導で、半日は実習や実務で過ぎていくのでした」と語る。そして、当時、農村教員養成所の設立者の一人であったハサン・アリ・ユジェルの言葉「人ひとりが踏み出す巨人の一歩ではなく、千人が踏み出す人間らしい幾つもの一歩こそがより重要である」や、イスマイル・ハック・トングチュの言葉「人は社会に貢献せずに死ぬのを恥じてしかるべきである」が、彼自身の人生において常に道標になっていたと明かす。
当時のトルコは、国の人口の80パーセントが農村で暮らし、総計4万の農村に5千の学校しかなく、農村人口の多さにも関わらず教員が6786人、都市部の教員が8096人であった、そんなトルコだ。
農村教員養成所[の設立]と共に、学校数は5千から1万7千へと、農村部の教員数は6786人から2万6千人以上に増えた。この見取り図を別の観点から眺めてみるなら、1930年代のトルコには85万3312人の生徒・児童がおり、それら生徒・児童のうち47万人が都市で、38万人が農村で学んでいた。農村では、学齢に達した192万人の児童のうち154万人が学ぶ権利が奪われた状況だった。こうして、まさにこのような状況下に初等教育局長であったイスマイル・ハック・トングチュは、東アナトリアにある1万8千の村々を訪ね歩き、3万人の村人からアンケート調査を実施する。この調査の果てに、トングチュは、トルコ共和国史上最も長く国民教育相を務め(7年7ヶ月と7日)、また、著名なトルコの詩人ジャン・ユジェルの父でもあるハサン・アリ・ユジェルと共に、農村教員養成所法案を起草する。兵役を伍長や軍曹として修了した青年たちを採用した初の教員コースが、(のちに農村教員養成所となる)エスキシェヒルのチフテレルに開設される。ハサンオーラン、ケピルテペ、ジラヴズ、アリフィイェ、デュズィチ、バシクデュズ、クズルチュッルやその他の農村教員養成所がそれに続き、21箇所の農村教員養成所が開設された。[それは、]農村の子どもたちを啓蒙することを目的とした、[農村が]当時の人口の大多数が暮らすコミュニティであることを考え合わせるならば、実際には国そのものを啓蒙することを目的とした、地に足が着いた、当時の状況に応じた教育と指導が一体に組み合わされた一撃であり、挑戦であった・・・。あの当時のトルコにおいて男女共学を実現し、文化科目と並んで、農業や保健衛生、技術科目が講じられた。マンドリンやケマンは、さも同教員養成所の象徴であったかのようだ。
なぜなら、何か楽器をひとつ習得しない限り進級できなかったのだから。
当時、教員養成所には同時期の著名人が何人もやって来たという。例えば、音楽の講義にはアーシュク・ヴェイセルが、文学の講義には、サバハッティン・アリをはじめとした当時の作家や詩人たちが、演劇の講義には当時の舞台芸術家たちが・・・。アリフィイェ農村教員養成所の1947/48年度修了生のヴェリ・セズギチは、アーシュク・ヴェイセルをはじめて聴いたのは私たちだった、と語る。
1944/45年度にジラヴズ農村教員養成所を修了したヤシャル・ドールは、当時の大衆詩人アーシュク・二ダーミーが教員養成所に立ち寄ったのだと述べる。当時、各農村教員養成所は、養成所のある地域の特色に応じたカリキュラムを適用した。バシクデュズでは漁業、カルスのジラヴズでは養蜂や遊牧、アリフィイェでは農業といったように・・・。養成所を修了した学生たちには、書籍150冊と、更には、実習を受けた分野に応じて、その分野の必需品や道具類(例えば大工技術であれば、大工道具一式・・・)が贈られるのだった。
1953年にジラヴズの農村教員養成所を修了したゼケリヤ・ブルトは、「村人は、オスマン時代、630年にわたり、ただ戦争の際と徴税の際に思い出されるにすぎず、国家の奉仕から恩恵を享受することはありませんでした。農村教員養成所構想は、村人を小作人ではなく同胞だとみなす計画だったのです」と語る。
現在、「新世代農村教員養成所同窓会」ブルサ支部長であり、1948年にアリフィイェ農村教員養成所に入学したレマンセル・スュカンはこう回想する。「農村教員養成所では男女共学でした。1950年には政治状況の影響もあって、各村落教員養成所で学んでいたおよそ1000人の女子学生は男子生徒と隔離されて、イズミルのクズルチュッル農村教員養成所に集められました。そして、2年後にクズルチュッルにNATOが駐留することになると、私たちはベシクデュズの農村教員養成所へと送られたのです。絶対に忘れることなどできません。私たちは1年間の[休学]許可を得ていました。そして期限が過ぎ、学校へ私たちが行ってみると、兵士に出迎えられました。クズルチュッルの女子学生は私たち19名でした。その養成所のある先生が、私たちのもとへやってきて、私たちをイズミルへ連れて行ったのです。イズミルからも先生は列車の切符に自腹を切って、エスキシェヒルへ[連れて行ってくれました]。それから、ベシクデュズへ・・・。」

■私の誕生日
「私がアリフィイェ農村教員養成所の初年度のことでした。日曜日のある日、学校の生徒、教師、理事、事務員は誰も彼もが一列に整列しました。その列は、片方の端がアリフィイェの鉄道駅に、もう片方の端は野菜畑の真ん中に達するほどでした。貯水池をつくるために列車で運ばれてきたレンガを、手渡しで、ほんの1時間足らずであっという間に運び終えたのです。フェヒム・アクンジュ学長から手渡しで受け取ったレンガを隣の友人に渡す際、私がどれほど自信満々になったか、片時も忘れたことはありませんでした。」農村教員養成所最末期の修了生の一人であり、無数の苦難とともに人生を送ってきた作家ナーディル・ゲゼルは、「私の誕生日は、アリフィイェ農村教員養成所に足を踏み入れた1947年11月25日です。数学のイルファン・アクスュイェキ先生、そして、養成所での私の初恋のひとビルセンのことは、忘れようがありませんでした」と述べる。
私は、過去に私が面会する機会を得、かつ現在もご自身の置かれた環境をより素晴らしいものにしようと尽力している農村教員養成所修了生の方々に、あなたにとって農村教員養成所を一言でいえば、と質問した。回答は以下の通りだ。

「社会変容の測量地点。」
「養成所無しのアナトリアは考えられない。」
「どの村落教員養成所に入っても、その時点できっと人間が変わる。」
「手に接吻してひざまずく個人、ではなく、理性と信仰、宗教と科学を、それぞれ区別する若者を育成した。」
「村のアアたちは、自分たちが跨っているロバ[農民]が自分たちよりも賢いことを望んでいなかった。」
「養成所は、母の抱擁のごとく熱く、父のいる炉辺のごとく信頼できるものだった。」
「愛情、知識、規律。」
「トルコ史上最大の「集団労働」。」
「当時の運営者や教師はそれぞれが英雄だった。」

■半ばで切り上げられた唄・・・
農村教員養成所を修了した教師たちは、アナトリアの四方へと派遣された。どの教師も、皆が文明の伝播者だった。村々では女も男も、石材や陶板を運んだ。学校を建てるために、だ。教師たちは保護者を説得し、生徒を集めた。農村に光を灯す[啓蒙する]のは学校である。アリフィイェ、ギョネン、そしてパザルオレンでの男女共学が作り出した友情。ハサン・アリ・ユジェルとトングチュたちによって始められた光を灯す物語はまだ半分も残っていた・・・。1947年に「農村出身知識人養成プログラム」である農村教員養成所は、変化に見舞われ、そしてそれが終わりのはじまりだった。同年、教員コースが廃止され、イスマイル・トングチュは更迭された。1954年に公布された法律によって農村教員養成所はすべて閉鎖された。

■荒野に咲く花
ブルサでその後の人生を送っている養成所卒の元教員は、およそ100人である。彼らの多くは、その後アナトリアの様々な地方で教職を務め、様々な新聞・雑誌に寄稿し、なかには書籍を出版された方もいる。そして、極めて重要なのは、彼らが、後年「全教職員統一諮問協会」や「トルコ教職員組合」といった教職員組織の設立に重要な役割を担い、民主主義のための格闘を固い信念をもって続けた、また、現在も続けている方々であり、彼らは荒野に咲く決して散ることのない野の花だということだ。

執筆:Guney Ozkilincブルサ文学・芸術協会会員

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:13587 )