コラム:封鎖に苦しむガザに届かぬ救いの手
2008年12月01日付 al-Quds al-Arabi 紙

■ ガザ学校、合格者なし

【イッザト・アル=カムハーウィー】

2008年12月01日付クドゥス・アラビー(イギリス)HPコラム面

 エジプトで教育が無償だった時代、私立学校に入ることは恥辱に近かった。それは学生の知的能力の低さの証拠だったのだ。サーナウィーヤ・アーンマ〔=高校課程修了資格試験〕の結果はラジオで放送され、合格者の番号を読み上げるのに〔疲れて〕口が渇いたアナウンサーにとって、最も好ましいのは こんな一言で済ませられる学校だった:「合格者なし!」。

 この印象的な一言は誠実さという美徳ゆえの、あるいは今日の教育や政治と違って結果の改ざんや問題の漏洩が当時はなかったからこその発言だった。試験や選挙で不正を許すのと同じ良心の喪失が、ガザ地区での“試験” 結果の改ざんを許している〔訳注:“試験”と“試練”をかけて、封鎖という試練を受けているガザ地区を学校に例えている〕。

 恐ろしい試験に誰も合格しなかったというのに、1つの放送局でさえ、その結果をこのような率直さで伝えはしなかった。〔ガザでの〕悲劇を議論していたテレビスタジオの照明があれば、ガザの病院に電気が灯せたし、〔悲劇を書きたてた新聞などの〕何トンものインクがもしも水だったならば、少なくとも子ども達の必要とする量をまかなえただろうに!

 世界に向けた私たちの懇願に誰も耳を傾けない。私たちが間違った方法で叫んでいるからなのだろうか?!

 「150万という数の人々が封鎖の下に置かれている」。我々はこのように朝も夜も叫び声をあげている。しかし集団を動員し、支配する技術を生み出した西洋社会は、人道問題においては個人レベルでの対応を優先する。生命の価値を重んじるヨーロッパは、地滑りに巻き込まれた人や火事で取り残された猫には救いの手を差し伸べても、150万の人々を助けて欲しいという我々の求めには躊躇し、数が一人に減るまで待つことだろう。そうして最後の一人になったパレスチナ人を救うために、西洋は一丸となって駆けつけることだろう。

(後略)

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( 翻訳者:小林洋子 )
( 記事ID:15341 )