独立系出版物への挽歌:週刊誌「ゴルアーガー」、2度目の休刊(その1)
2008年12月24日付 E'temad-e Melli 紙
「ゴルアーガー」誌の最終号(http://www.golagha.ir/より転載)
「ゴルアーガー」誌の最終号(http://www.golagha.ir/より転載)

【ハーディー・ヘイダリー】「もうだめだ、疲れた!」

 プーパク・サーベリー氏のペンによるこの言葉を週刊誌「ゴルアーガー」第2期最終号で読んだ瞬間、すでに過去の思い出となってしまった日々が、思わず私の脳裏を駆けめぐった。

 そう、これがイランのあらゆる独立系出版物がたどる結末なのである!

 故カユーマルス・サーベリー氏が1370年代末〔西暦1990年代末頃〕、何かにつけ週刊誌ゴルアーガーの自主休刊を口にし、ついには氏の生涯最後の数年間に、内心の願いとは裏腹に休刊を受け入れてしまった日々のことを、私はいまでも覚えている。あの頃も「ゴルアーガー」は疲労感について話していた。

 サーベリー氏の死によって、週刊誌ゴルアーガー第1期休刊の主だった理由が明かされる機会は失われてしまった。しかし日に日に増す政治的・社会的圧力が、この週刊誌の発行継続の道を閉ざしたということを知らぬ人などどこにいるだろうか?

 1369年〔西暦1990年度〕重苦しい雰囲気の中、〔政治や社会問題に対する〕批判的な問題意識から風刺や風刺画を世に問う目的でイラン出版界に足を踏み入れたゴルアーガーは、革命後最も影響力ある雑誌へと成長していった。実際、人々の会話で聞かれた一部の風刺ネタは、この雑誌に影響されたものだったのだ!

 イラン当局者に関する風刺画や彼らに対する風刺めいた批評を発表することがタブーとしてはばかられていた時期、文化や政治といった分野で何年にもわたり行政上の責任ある地位を占め、またイスラーム共和国当局者の多くと親交を保っていたカユーマルス・サーベリー氏は、新たな道に果敢に挑んでいった——そしてそれは、多くの人々の共感を得たのであった。

 1376年ホルダード月2日〔西暦1997年5月23日、ハータミーが第七期大統領に当選した日〕以降のイラン出版界の繁栄の日々は、ゴルアーガー衰退の始まりでもあった。それというのも、批判的な新聞や雑誌がかつてないほどの勢いで発行され、また毎日のように風刺画が出現し、これまでとは異なった風刺が当時の人々の趣向を満足させる中で、ゴルアーガーの風刺はその独自性を失っていったからだ。

 独立系出版物に対する規制が日に日に強くなっていった頃から、創刊者サーベリー氏に対する政府高官らの敬意にもかかわらず、ゴルアーガーも一部の圧力のもとで自主休刊へと追い込まれ、出版開始から13年目にしてついに、その動きを止めてしまった!

 1382年〔西暦2003年〕春、カユーマルス・サーベリー氏の信じ難い死の後、新雑誌出版の話が持ち上がった。

 〔カユーマルスの娘である〕プーパク・サーベリー氏が1383年オルディーベヘシュト月〔2004年5月〕にゴルアーガーの読者たちに約束した通り、この間、編集部の灯は様々な形で守られた。「雑誌は時代を反映する申し子」との出版スローガンによって、ゴルアーガーは形態や性格、さらにはある程度内容も変えつつ、隔週誌として1387年オルディーベヘシュト月26日〔2008年5月15日〕に発行を再開し、ゴルアーガー編集部の活動に新たな魂が吹き込まれたのであった。

〔つづく〕


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独立系出版物への挽歌:週刊誌「ゴルアーガー」、2度目の休刊(その2)を読む

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( 翻訳者:佐藤成実 )
( 記事ID:15441 )