バルバロスオールの新作
2009年10月18日付 Yeni Safak 紙

『共和国の敬虔な女性たち』は、作家ファトマ・カラビュユク・バルバロスさんの新しい著書である。共和国の敬虔な女性たちの、細やかさ、労力、恵み、信仰そして戦いで包まれた人生を語る本書は、11月2日に店頭に並べられる。

ファトマ・K・バルバロスさんが敬虔でもの静かな女性たちを語らせなければ、ヌスレト・サファヒについて、アティエ・アイクについて、私たちが何か知ることがあっただろうか…。例えば、イスメト・イノニュの非常に敬虔であった兄弟アフメト・ミトハト・テメッリの妻である、ベヒイェ・テメッリさんを知る人はいただろうか?

■ 「初の人たち」の物語が説かれる

ザマン紙の日曜特別版の掲載記事によれば、1914年から1945年の間に生まれたこれらの女性たちの物語は、「初の大卒、働く」女性たちの物語と同じ時のことである。11月2日に市場に出回る『共和国の敬虔な女性たち』からは、慎み深く寡黙な16人の女性と、彼女たちの周囲をめぐる大きな世界を見ることができる。

■ 自身の人生に重ね合わせて見て下さい

ファトマ・K・バルバロスオールさんが、「あなた方の人生の物語を知りたいのです」と言って(この執筆作業を)始めなければ、私たちは共和国の信仰深い女性たちの、細やかさ、労力、恵み、信仰、そして戦いで包まれた人生を知ることはできなかっただろう。7年間に渡る聴き取りを行い、構想された後、(書店の)書架に置かれる準備が整った『共和国の敬虔な女性たち』について、「私自身学ばせてもらいました」と作家は述べる。我々も今まで全く知らなかったこれらの人生が、私たち全てを学ばせ、細かな躾をしてくれると思う。「これらの女性たちは別の場所で暮らしたようだ、彼女たちのために分けられた世界の別の側で…」と言って、この本を読まないでおくこともできる。しかし、あなた方読者には無理やりにでもこの本に入っていって欲しい。本の中の中味全てを、あなた方の物語におけるそれと重ね合わせてみて下さい。あなた方の過ち、弱さが文章の言葉の間から、あなた方の目の前に突きつけられるように。そもそも、このために他の人たちの物語を人は読むのではないでしょうか。

■ 彼女たちを説得することは容易ではなかった

「昔の女性たちのことを知りませんでした」と、バルバロスオールさんは言う。「彼女たちは私たちにとって(目立った所のない)集合写真のようでした。そうした集団の中より一歩前に出た人たちは、職業の前に絶対に『初の』という形容詞を付けなければならなかったのです。初の女流作家、初の女性画家、初の女性看護師…。」

当然のことながら、バルバロスオールさんが「共和国の『向こう側の』女性たち」と紹介する敬虔な女性たちの中にも「初の」女性はいる。しかし、それらの女性たちは世俗的な世界の成功の中に記録される先駆者ではない。「スカーフを被った初の医者、スカーフを被ったため退学させられた神学部初の学生…」本書は1960年代に「最初の大学卒業者」の世代、そして1970年代の下部公共機関で勤務した医師や教師である女性たちが創った団体を公に示すことを目的としたため、登場する16人の女性たちの物語は互いに近いテーマ毎に並べられている。

最も高齢な人は1914年生まれ、最も若い人は1945年生まれである女性たちに会い、話しをすること、彼女たちに人生を説明するよう説得するのは正直、決して簡単なことではなかったという。ほとんど全員が、「(本にする程の)人生を過ごしてこなかったわ!」と、謙遜し遠慮したという。「英雄」である彼女たち一人ひとりに、それぞれの人生が他人に話して聞かせる程、価値のあるものだと説得したバルバロスオールさんは、準備するのに大変な労力が要ったこの著書で、読者にいくつかの箇所に注意して読んで欲しいことを述べる。

一つ:ほぼ全員が「路にしたがう人」である女性たちの人生では、夢に基づき行動することが一般的な態度の方法であること。二つめ:女性たちが「都市生まれ」というアイデンディティを持っていること。三つ:(公式の場で)スカーフを被り共和国の憲法を「悲しませない」だけの優雅さを好んだため、裁縫・編み物教室の周囲で団体を設立したということ。そして最後になるが、身に付けた学問が何であろうと全員がまず先生や教師であり、収入がいくらであろうと全員が自身のことを貧しい人々や、弱い人々の庇護者であると捉えていることである。

■イスメト・イノニュのデルヴィッシュ(イスラーム神秘主義者)のおば

ベヒイェ・テメッリさん:

1915年エディルネで生まれたベヒイェさんは、技術の進歩に興味を寄せるイマーム、イスマイル・ハムディ氏の娘で、イスメト・パシャの兄弟であるヤルバイ・アフメト・ミトハト・テメッリ博士の妻である。非常に敬虔深いアフメトさんは、「新旧いずれの言葉も知っている、信心深く優秀な、そして忍耐強い連合い」を求めて、自身より33歳年下のベヒイェさんと結婚した。家族と不仲にあるアフメトさんを、イスメト・パシャが開くアダでの食事会への招待に参加するよう説得するのはベヒィエさんの仕事だった。スカーフの着用はイスメト・パシャを不快にはさせず、弟のハサン・ルザー氏のスカーフ反対意見は意味の無いことであった。パシャの家族の女性たちの多くはスカーフを被っており、ある結婚式に行ったとき、会場内で最もスカーフを被った人の割合が高いのはイスメト・パシャのテーブルであったという。ベヒイェさんは1960年にメフメト・ザーヒド・コトク師に就き(イスラーム神秘主義の)修行を始めた。筆者は対談を行った彼女に対し、「まるで82歳の若い娘のようである」という表現を用いている。なぜかというと、よいムスリム、よい妻、よい母、そして信徒集団の導きを弁えたよい一員となる努力が、これの女性たちを「疲れさせず、年を取らせず、老いなくなせている」からであるという。

■ 全ての人の女医

ヒュメイラ・オクテンさん:

マフムト・ジェラレッディン氏とエミネ・マフムディイェさんの最初の子供として1925年にアティカリで生まれたヒュメイラさんは、医学部卒業者である。ヒュメイラさんは礼拝を行っていることを、大学を終えるまで友達全員に隠しており、彼女の秘密を知っているのはただ図書館のアルメニア人司書だけだったという。学校にある二つの図書館の内の一つの鍵をヒュメイラさんに渡し、礼拝を行うのを助けていたのである。医師となり、自身を病人へ捧げたこの女性の人生を、筆者はただ一つの言葉で要約している。「愛に満ちた人生…」と。

■ 身の程を弁えている女性

ミュニレ・ヤラルさん:

独立実業家協会(MÜSİAD)創設者代表であるエロル・ヤラル氏の母ミュニレ・ヤラルさんには、とても素敵な祖母がいたという。オスマン文化への愛着心からラテン文字に反対し、新聞を読むことが大好きであるのに関わらず、新しいアルファベットを学ばず、自己の信念を貫いた祖母アディレさんは、孫たちに記事を読ませる一方で、「そのように書かれている。けれど本当は全く違う」と反対意見を述べていたという。アルナヴトキョイ女学校を卒業したミュニレ・ヤラルさんの夫は、「礼拝は俺がいないときにしろ」と言う程の反宗教派の人であった。だがしかし、ミュニレさんが巡礼の帰途で頭を覆うことを妨げることは出来なかった。ジッダで知り合ったギュルデン・バヨ氏を介し、他の世界と出会ったミュニレ・ヤラルさんは、1994年に「春の扉会(ソンバハール・ギリシム・グルブ)」を設立し、家族から離れ、高齢者、病人、子供や服役者に奉仕することを目標とし活動し始めた。

■ 自らの手で素晴らしいことをなした人生

ファキヘ・ギュレチさん:

小学校に上がる前、祖父の尽力によってクルアーンを全て読み終えたファキヘ・ギュレチさんのクラスの友人たちは、その時代の有り触れた子供たちであった。イスメト・イノニュの娘オズデン、キャーズム・カラベキルさんの娘エメル、内務省オズトゥラク大臣の娘ウルケル…。ファキヘさんの記憶には敬虔なオズデン・イノニュの姿がある。彼女は母親とハジュ・バイラム聖廟へ参詣したこと、礼拝を行ったことを話す少女だったという。また、ある日クラスの生徒たちは彼女が礼拝の章を知っていると思わずに、フェキヘさんに判断してもらった出来事があった。そのとき、祈りの言葉を全く躊躇することなく詠んだイノニュの娘は、敬虔な友人たちから(その祈りの言葉が)正しいことを認められると安心した様子を見せたという。ファキヘさんはイノニュの家族の慎ましい暮しぶりも覚えている。「オズデンは兄たちを乗せた後に自分を迎えに来る車を何十分も、門のところで待っていたものでした。今だったら、一人の子供に付き一台ずつ別の車があることでしょうに。」

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( 翻訳者:西山愛実 )
( 記事ID:17686 )