コラム:アラブにおけるリベラリズムの危機と伝統主義イデオロギー
2009年10月04日付 al-Hayat 紙

■ アラブ・リベラリズムの危機

2009年10月04日付アル=ハヤート紙(イギリス)HP論説面

【サラーマ・カイラ(シリア人著述家)】

 なぜアラブ世界にはリベラリズムが根づかなかったのか?なぜリベラリズムは周縁化され、そして試みるたびに周縁化の道を辿ったのか?リベラル思想は19世紀末にアラブ世界に浸透し、当時支配していた伝統主義的イデオロギーに対する苦しい闘いを繰り広げ、その闘いに勝利し、明確な政治的プロジェクトの中に体現された。それは理性と近代性、民主主義と世俗主義、そして工業化と経済の近代化、さらに民族の統一と独立を訴えるプロジェクトであった。

 ムハンマド・アリー・パシャの留学生派遣が産業革命とともに確立したヨーロッパ思想浸透の始まりを告げ、ヨーロッパ思想の様々な潮流との接触が拡大を見、徐々に近代教育が普及してゆくための支えとなった。したがって19世紀末と20世紀初頭は、宗教改革と世俗主義、リベラル潮流と社会主義潮流の普及のための闘いが繰り広げられた時期であった。事は単に文化的なるもののみに関わるのではなく、文化的なるものは自由かつ民主的な近代の目標とみなされた一連の目標を実現するための、政治的プロジェクトの明確化への入り口だったのである。近代思想が勝利し、伝統主義的イデオロギーが守勢に移ったことは明らかであった。

 これがのちに「アラブ復興[ナフダ]の時代」と呼ばれるようになった時期であり、近代思想一般の浸透と、経済・社会・政治、そして文化におけるプロジェクトとしての近代性(モダニティ)の実現への努力に満ち満ちた時代である。しかしこのプロジェクトは失敗した。プロジェクトを担った勢力がそれを放棄し、近代主義の皮をかぶった伝統主義的構造と適応する方向に傾いたのである。かくして村落部は意識の面でも社会的関係の面でも中世の暮らしにとどまり、貧困と後進性に浸り、政治体制は「王権的」あるいは村落部の問題も都市部の問題も解決することのない形式上のリベラル体制となった。独立後に形成されたそれらの体制は、従来と同じ[伝統主義的]構造を維持し、近代化やリベラル化の実現に真剣に取り組むことはなかった。ナフダ的なプロジェクトを掲げる社会的勢力に支配されていた体制においてさえ、それらの勢力が権力を掌握し得たのは、それまでの構造を保持するという消えゆく植民地体制との合意の結果であったのだ。それらの構造は、権力を掌握した社会的勢力のものとして確立された権益の一部となっていたのである。

 この状況こそが村落部の勢力をして権力の掌握、古く従属的な社会関係の打破、建設の試みに駆り立てたのである。そして結局、その成果は彼ら地方勢力の一部の懐におさまることとなったのである。つまり、専制は略奪のために必要だったのだ。しかしこれらの勢力の支配は、運命の仕業によって起きたことではなく、「陰謀」の結果でもなく、資本主義の支配と適応したあの伝統主義的構造が続いたことによる危機的な現実と、その構造がもたらす悲惨な社会的状況の中で生まれた、伝統主義的構造の破壊への志向によって起こったことなのである。したがって我々はリベラリズムの失敗の原因を説明せねばならない。なぜなら、それこそが後の全ての状況をもたらした基礎であったからである。問題は後に起こったもの、すなわち専制体制の中に存在していたのではない。つまり、専制体制がリベラルな発展の道を断ったのではなく、リベラリズムの状況こそが専制体制を否応なしに生み出したのである。

(後略)

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( 翻訳者:平川大地 )
( 記事ID:18565 )