コラム:デモ参加者らを襲った「ムバーラク派」について
2011年02月02日付 al-Quds al-Arabi 紙

■用心棒たちはムバーラクを救えない

2011年2月02日付『クドゥス・アラビー』紙(イギリス)HPコラム面

【アブドゥルバーリー・アトワーン】

エジプト政権は、罪なき人々の死体を残さねば去らぬつもりらしい。人々は、文明的な手段で現政権に無血の退陣を要請し、30年の抑圧と腐敗による悲惨な現状から自国を再生すべく、新たな指導層を選出する場を明け渡せと言っているのだが。

タハリール広場でデモ隊を攻撃しているのは、民主主義者たちではなく市民でもない。彼らは、あらゆる醜悪な手段を用いることで国民に忌み嫌われている治安要員の集団である。

ムバーラク大統領はエジプトを炎上させる決意を固めつつあるようだ。殺戮と破壊以外の言語を解さず、奉仕すべき国民を飲み込んで口を拭うことしか知らないかのように。

テレビを通して我々が見たタハリールでの流血沙汰は、不公平なものであった。一方は、エジプト再生を願い、その国力で飢える国民を救い国の尊厳を回復したいと思う人々で、もう片方は武装治安部隊である。彼らは、国民がもうたくさんだとして平和的な抗議を通じ終わりにすると決めた政権を救おうとしている。

デモ隊へのこのファシスト的攻撃が昨夜の大統領スピーチの後に行われたのは偶然ではない。スピーチで大統領は、国外退去はせず、この9月まで大統領官邸に居座り、改憲により国民の要請に応え自由でクリーンな選挙を実施すると述べた。

しかし、独裁者は改革の約束を守らず、国民の要請にもこたえない。時間を稼ぎ怒りの波が引くのをまって、敵対者に襲いかかり粛清する。ムバーラク大統領もその一人だ。

百万がカイロの中央広場へ出て退陣を叫んだとしたら、それは国民投票に等しい。受理し、その要請に沿って動くべきであろう。だがムバーラクは元々投票箱に信をおかない。エジプトの国民感情など尊重してこなかった。彼の政権はねつ造行為のモデルとなり、その専門家たちを近隣諸国へ輸出しているほどだ。

大統領と政権幹部らが発する挑発的な口調は驚くべきものではない。彼らが暴力に訴えたのも不思議ではない。彼らが同盟国イスラエルに「アドバイスを求めて」きたことが今、流血という形で実を結び始めた。イスラエルはエジプト革命に恐れおののき、現政権救出に動いた。ワシントン他欧米政権との関係と巨大なマスコミの力を用いて政権継続を訴え、その代替手段を世界は恐れるべきと主張している。

ムバーラク政権があと7カ月残存すれば、恐らくその後数年間さらに延長される。それは、エジプト国民の福祉と利益には適わない。しかしキャンプデービッド合意の維持には貢献する。つまり、イスラエルの国境と安全を守るエジプトの役割を残すことができ、抵抗勢力に対抗できる。抵抗勢力とは、アラブ再生を望みイスラエルの傲岸さゆえに中東地域が陥っている恥ずべき状況に終止符を打とうとする高貴な勢力のことである。

治安部隊を用いて混乱と恐怖をばらまいているムバーラク政権の戦略は明らかである。治安部隊による強奪、放火は、政権交代とは混乱と無秩序を意味するという意識を国民に植え付けるためだ。そうでなければ、平服で破壊行為を行ったのち、この部隊が街頭や公共施設からあっという間に消えた説明がつかない。

偉大なるエジプト国軍が、圧政者側にすり寄り、政権の用心棒集団と歩調を合わせたのをみて、我々は苦々しさを禁じえない。中立姿勢はごまかしだったのか。毅然としてエジプトの尊厳を守りアラブ・イスラーム共同体全体の襟を正させたこの軍が、ごろつきの用心棒どもをタハリール広場に通すとは、我々は思っていなかった。この数日間平和的な抗議活動を維持し、軍は味方だと思っていた国民を守るために介入もしないとは。

我々は大殺戮の鳥羽口にいる。国民の間に亀裂が起きることは大打撃である。国民が一丸となって暴力を回避し、圧政に抗議してきたことに意味があったのだ。


デモ隊が国を破壊すると、エジプト政権関係者は繰り返し述べていた。政権こそが国の維持を保証していたのだと言う。しかし事実は逆で、国とその諸機関を破壊するのは腐敗に染まった彼らである。国民を襲わせるためにごろつき集団の手綱を解き、権力の座から離れようとしない。

専制政治は多々行われてきたが、ムバーラク大統領のように自国を破壊しようとする独裁者はそういない。イランのシャー、エジプトのファールーク国王、フィリピンのマルコスでさえムバーラクとその取り巻きに比べればかわいいものだ。彼らは国民に拒否されている事を理解し国を去った。彼らの軍は国民の要請を支持したのだ。国軍と国民は分かちがたいものであり、国民の血を流すことは軍にとって大罪にあたるからだ。

エジプト民衆革命は、専制政権が追い落とされ、偉大なるエジプトに自由と尊厳の太陽が昇るまで続くだろう。高潔なるエジプトの人々は、犠牲にひるまず道半ばであきらめない。彼らは自由を実現するだろう。いや既に彼らは自由そのものだ。殉教者の血から新生エジプトが立ち上がるだろう。暴君は去り、エジプトとその国民が残るのだ。

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:21331 )