社説:アル=カッザーフィーはサッダーム・フセインと同じ運命を歩むか
2011年07月20日付 al-Quds al-Arabi 紙


■アル=カッザーフィー、サッダーム・フセイン、ビン・ラーディン

2011年07月22日『クドゥス・アラビー』

リビアのムアンマル・アル=カッザーフィー大佐が、3年前ダマスカスで開かれたアラブサミットに参加した際に、自身の仲間であるアラブ世界の指導者たちに向けて、いまにイラクのサッダーム・フセイン元大統領と同じ運命をたどるだろうと警告した時、自分も何らかの形で似た運命をたどることになろうとは、アル=カッザーフィー大佐も思っていなかっただろう。フセイン元大統領は、アメリカの占領が産み落としたイラク新政権によって、形ばかりの裁判を経て死刑に処された。

イラクのフセイン元大統領は、2003年4月9日、アメリカ軍によるバグダード陥落後に姿を消した。そしてレジスタンスを組織し、数年前に占領に備えて設立していたグループの活動を始めた。アル=カーイダの首領ウサーマ・ビン・ラーディンのやり方を踏襲して音声テープや声明を公開し、占領者に抵抗して踏みとどまるよう、国民を鼓舞した。

およそ二年間にわたった[訳注:実際には8カ月]潜伏と、つらく粗末な暮らしの後、大物側近の一人が裏切って、高額の報奨金目当てで大統領の隠れ場所をアメリカ軍に通報したことによって、米軍はフセイン大統領を捕まえることができた。

リビアのアル=カッザーフィー大佐もアル=カーイダの首領や、その後の故フセイン大統領と同じ手法を取るようになり、ある時はクフラ砂漠から沿岸部に地下水を運ぶために建造した巨大な人工河川の水道網、またある時は側近や近親者の家というように、注意深く隠れ家を渡り歩いている。

アル=カッザーフィー大佐を暗殺しようと、リビアを隈なく撮影し、盗聴しているアメリカの偵察機は、幾度となく彼を捉えて殺そうとしてきた。バーブ・アル=アジージーヤの自宅を爆撃し、息子サイフ・アル=アラブ氏と数人の孫たちを殺害した。あるいはまた、大佐の最側近の一人であるアル=フワイリディー・アル=フマイディーの自宅を空爆した際には、息子の妻とモロッコ人の乳母、幼い孫11人を含む約20人が殺害された。このむごたらしい空爆は、世界中で怒りの反応をひきおこした。

アル=カッザーフィー大佐はNATOの偵察機に居場所を突き止められないよう、携帯電話やその他の電子機器を使用していない。しかし、大佐はトリポリの緑の広場に集う支持者の大群衆に向けて音声メッセージを発表し始め、「十字軍」と戦うよう煽り、反体制派の拠点ベンガジを掃討するために人民が進軍する時は近いと脅している。

アル=カッザーフィー大佐を捕まえるのは容易ではない。おそらく長い時間がかかるだろう。アメリカ軍はアル=カーイダの首領の隠れ場所にたどり着くのに約10年かかった。また、サッダーム・フセインの隠れ場所にたどり着くまでにはその半分程度の時間がかかった。アル=カッザーフィー大佐が数か月あるいは数年も生き続けることは、NATO軍やアル=カッザーフィー体制、あるいはトリポリに残っているその残滓を転覆するために戦っているリビア人の同盟者を利することには全くならない。

NATOの指導者たちや諜報機関の専門家らは、リビアの現体制は間違いなく分裂するか、もしくは護衛が裏切って敵を大佐の隠れ場所に手引きするか、暗殺してしまう方に賭けている。これは起こり得る賭けであり、完全には否定できない。

その根拠は、[政権から]離反し、反体制勢力に加わった指導者たちを見てみると、彼らはアル=カッザーフィー大佐に最も近く、彼の秘密を隠して40年以上仕えてきた人物たちであったことがわかるからである。そのもっとも顕著な代表例が、10年間諜報機関のトップであったムーサー・クーサーや、自由将校団のメンバーで内務大臣だったアブドゥルファターフ・ユーニス、情報・外務大臣を長年務めたアブドゥッラフマーン・シャルクムである。であれば、アメリカやフランスが大金と欧米での生活を約束してくれたのと引き換えに、階級の低い護衛が離反しても不思議はあるまい。

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( 翻訳者:松尾愛 )
( 記事ID:23352 )