サウジアラビアでの抵抗運動
2012年07月09日付 al-Quds al-Arabi 紙

サウジアラビアでの抵抗運動

2012年7月9日『クドゥス・アラビー』

【アブドゥルビッリー・アトゥワーン】


サウジアラビアは激動するアラブ・イスラム諸国の中にあって、60年間、安定のオアシスとしての地位を保ってきた。1979年メッカのアル=ハラム・モスクを数日間占領したジュハイマン・アル=ウタイビー運動や、90年代段階や21世紀初頭の「アル=カーイダ」の攻撃、のような極めて限られた例外はあるが。


サウジの統治を担う一族は、周囲の国、特にエジプト、シリア、イラク、イエメンが緊張や戦闘や暴力に満ちた状況を経験する中、その安定的な状況の中で暮らす国民を、寵愛をもって取り扱ってきた。そして、国民は、同じく、政権を信じ、その下に集結し、この寵愛を維持するべく、一部の間違いは、やり過ごしてきた。


サウジアラビアの指導者たちの言葉には多くの健全さを含んでいる。しかし、サウジアラビアの指導者たちが、いかなる者であれ、衝突や内戦の中における、そこ、ここでの偏見によって、一部の周辺国に不安定さをもたらす一つの原因であったことは事実である。それらは例えば、1994年のイエメンの分離戦争や、現在進行中のシリアの内戦で、後者においては、外相のサウード・アル=ファイサル王子が、現政権の崩壊を早めるために、シリアの反体制派を武装することに関する意思を表明している。昨日、サウジアラビア当局は二人の抵抗者の死亡を公表した。これは、少数派のシーア派が本拠としているアル=カティーフ地方で、ニムル・アン=ニムル師が、大腿部を傷つけられた後、逮捕された際のことである。サウジアラビア政府の報道官は、アン=ニムル師は扇動者であるとし、彼の逮捕に反対してデモを行っていた彼の支持者たちを、イランの支持者で、イラン支持を扇動するために町に出たと考えた。

アン=ニムル師は、サウジ王家とその腐敗への批判で最も知られており、シーア派の彼の支持者が他の市民と同様に、仕事や国家の上級職における均等な機会を得るよう要求していた。また、同様に、少数派のシーア派のデモを、鉄拳により取り扱っていた故ナーイフ・ビン・アブドゥルアズィーズ皇太子への攻撃でも知られている。

サウジ当局が、他のアラブ諸国の政府と同様、このような抵抗運動の波に寛容でありえず、力でこれを押さえつけるであろうことは明白である。治安部隊がアル=カティーフでのデモ隊を抑えるために、実弾を使うことを躊躇しなかったことからもこれは明白である。そこでは、デモ隊の二人が死亡、他の多くが負傷し、あるものは重体であるという。

おそらく、逮捕劇の中でのアン=ニムル師への銃撃は、これが近い将来、抵抗運動の広がりを防ぐために実施される方法になるであろうことを明らかにしている。BBCでの彼の兄弟の声明によると、同師は非武装であったという。

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( 翻訳者:山﨑やよい )
( 記事ID:26971 )