レバノン:聖ヨセフ教会でマフムード・アッ=ズィーバーウィー個展
2012年11月09日付 al-Hayat 紙


■マフムード・アッ=ズィーバーウィーの「自然」、沈黙と存在感高まる

2012年11月9日『アル=ハヤート』

【ベイルート:本紙】

画家のマフムード・アッ=ズィーバーウィーは、イエズス会大学(聖ヨセフ大学)の建物内にある聖ヨセフ教会の地下で開かれた新たな個展に造形作品50点を出展した。彼はこの展覧会のために、自らの創作の道程からインスピレーションを受けたタイトルを選んだ。それは「顕現」である。おそらくこのスーフィズムの次元を持つタイトルは、イスラームとキリスト教における霊性を結びつけて、画家が挑戦し続ける試みを最もよく表現するものだと言えよう。それは芸術的であると同時に精神的あるいは形而上的な試みである。展示された作品は、ズィーバーウィーが確立した造形の美学を放棄してはいないが、そこから飛び出して視界を広げ、自らを再び創造し直し、見慣れないヴィジョンや輝きと顕現を探究している。

例えば肖像画や静物画のように、ズィーバーウィーのお馴染みのテーマの一部がこの美しく、インスピレーションを与えてくれる展覧会において窺えたとしても、先ずその肖像画には更なる霊的な雰囲気とスーフィズム的な面差しが付け加わっている。そして目に見えない痛みが宿るこの肖像はついに、楽園的で両性具有的な肖像と化している。それはまるで存在する前の肖像、あるいは存在した後の肖像であるかのようだ。それは秘密を明かしたり現したりするよりも多くを隠している肖像であり、天空からの恵みと混ざり合った痛みと、内なる喜びに溶け込んだ憂鬱とを生きる肖像である。

ズィーバーウィーが描く静物画もまた、内なる自然の風貌を湛えている。それは漆黒の光、存在の光、霊魂の底から発する光で満たされた自然である。かくして静止した陶器や花瓶は例えば、この世界における機能を果たすために存在する道具以上のものに見える。古代の神々に捨て去られながらその痕跡を持ち続ける陶器のようであり、自らを取り巻く悲しみから解き放たれるための霊魂の宴を迎える準備ができている陶器のようである。それは、救いの時が未だ訪れぬままに長いこと待ち続けている世界の象徴である。

ズィーバーウィーはこのような肖像画と静物画にとどまらず、これらに加えて野鳩の群れを描いている。野鳩たちは、大洪水の時代から飛んで来たようであり、微かな悲しみを湛えながらも新しい大地の吉兆を運んでいるように見える。それらは啓典や讃歌の中から飛んで来た野鳩たちであり、死の時を通り越えてゆくことを万物に呼びかけながら嘆き、鳴いている。

マフムード・アッ=ズィーバーウィーの新しい絵画を鑑賞する人は、慣れ親しんだ好きな作品を見ていると感じるが、しかし、ここではその作品はさらに多くのものを顕現し、記憶の錆や時間の風貌を払い落としている。静物は同時に沈黙と存在感を増し、ズィーバーウィーの独特な世界を形作るその他の要素もまたかくの如しである。

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( 翻訳者:渡辺亜実 )
( 記事ID:28189 )