「アメリカに死を」はお上の命令で止めることのできるようなものではない(下)
2013年11月04日付 Jam-e Jam 紙

 〔「アメリカに死を」のような〕これらのスローガンは時の経過と共に、状況が正確に観測されて、〔例えばアメリカ政府の〕スタンスに変化が認められたり、〔資産凍結が解除されるといった〕人民の求める要求に対して〔好ましい〕結果が得られた時に初めて、終わりを迎えるものである。それゆえ、人民のスローガンに介入し、それを自らの望みに沿ったものへと無理矢理に作りかえるというようなことを、〔イラン〕政府に期待することはできない。

 イランで成立する政権は人民の票によって生まれるものであり、結果として公衆の要求に沿ったものとなる。しかしその一方で、政府当局の事情や短・中期的な戦略によって、さまざまなレベルの責任者たちが〔人民のスローガンとは〕異なったレトリックを採用することもありうることだ。しかしだからといって、人民の叫びや意志が一時的な外交上の曲折の影響を受けて変化してしまったり、何らの成果も得られぬまま戦略的なスローガンが忘却されてしまうというようなことを、〔欧米諸国は〕期待してはならない。

 つまり、イラン人民の「アメリカに死を」のスローガン(もちろん何度も強調されてきたことだが、これは同国国民に言及したものではなく、専らアメリカ政府の敵対的な政策に向けられたものだ)は、過去34年間、政府の命令によって唱えられてきたのではなく、それとは独立に、一国民的戦略として、人民によって唱えられてきたものなのである。それゆえ、アメリカ政府の政策にはっきりとした変化が(外交官だけでなく)人民によって感じ取られ、証明されたときに初めて、このスローガンが終わりを迎えるのを期待することができるのである。

 この変化というのは、言うまでもなく、カメラ越しの微笑みとか、言葉遊びの上での変化という意味ではない。そうではなく、それは専ら行動で示されるべきものなのである。「アメリカに死を」のスローガン継続は、国際関係における緊張緩和を戦略的に追求している政府の政策を弱めるものではなく、むしろ人民の要求を支えとして、交渉のテーブルで人民の利益を守り、国益からのほんの少しの後退も受け入れない外交官らを応援するものなのである。

 「アメリカに死を」のスローガンはまた、ホワイトハウスに対する明確なメッセージでもある。それはすなわち、アメリカへのイラン人民の視線を変えたければ、同国は外交的ジェスチャーと政治家風の言葉遊びを弄する代わりに、イラン人民がアメリカの敵対的政策が終わったということを日常生活の中で感じ取ることのできるような行動を実際に取るべきだ、というメッセージである。恐らくこうした状況下で初めて、政府の戦術とは独立に、「アメリカに死を」のスローガンの是非について、これまでとは異なった判断が人民によって下されることだろう。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:白糸台国際問題研究所 )
( 記事ID:31976 )