社説:バアス党と「ダーイシュ」の比較
2014年01月07日付 al-Hayat 紙
執筆者:ハーズィム・サーギーヤ氏
執筆者:ハーズィム・サーギーヤ氏

■1963‐2013年:バアス党と「ダーイシュ」

【ハーズィム・サーギーヤ】

「ダーイシュ」として知られることになった「イラクとシャームのイスラーム国」は、一夜にして(地域の問題の)あらゆる清算を迫られる存在になった。「ダーイシュ」は、強硬かつ暴力的で抑圧的な運動のための組織であり、イラクとシリアの国境をまたいで活動し、両国を一つのイスラーム国家の枠に収めることを主張している。つまり、同組織はサイクス・ピコ協定の合意内容を否定し、統一・連合主義の立場をとる。

昨年の2013年に起き、今年2014年もその暴力的影響から逃れられないであろう「ダーイシュ」の躍進は、60年前に起きた現象と類似しているように思われる。その現象とは「アラブ社会主義復興党(バアス党)」が1カ月の間(2月8日から3月8日)にイラクとシリアで権力を掌握したことを指す。

もちろん「バアス党」と「ダーイシュ」の間にある相違は大きく、多岐にわたっている。前者は軍事クーデターを通じて政権を獲得しアラブ民族主義をそのイデオロギーとして唱えていたのに対し、後者は自らをジハーディストと名乗り、イスラームをイデオロギー的に唯一かつ支配的なよりどころとして唱えている。

だが、バアス党は1963年に二つの国を統治し、「ダーイシュ」は今日その両国または少なくとも両国にいるスンナ派を侵食しようとしており、スンナ派以外に対しては存在そのものを脅かすとしている。上述の二段階に関わる二国とは、イラクとシリアを指し、理論的なバアス党は両国の統一を試み、今日においては「ダーイシュ」が両国を一つの国として描き出す形で扱っている。バアス党が暴力と専制をもって両国で政権を獲得したのと同様、「ダーイシュ」もまた暴力と強権を用いて、両国から栄え出たものを手中におさめようとしている。しかしバアス党は当時、ナセル主義に代表される広範なナショナリズム潮流(汎アラブ主義)に対する異議をその一側面として持っていたのに対し、「ダーイシュ」とそれに類する諸組織は、「同胞団」に代表される伝統的なイスラーム主義潮流に対する異議をその一側面に持つ(という点で両者は異なっている)。

そして、バアス党が1960年代当時、為政者と民衆の間で合意され人気を博していたアラブ民族主義という文化から発生したように、「ダーイシュ」とその同類項は、現代の人気世論であるところの政治的イスラームという文化に端を発している。しかしまた、バアス党はそれ自身が果てしない分裂にさらされ、イラクとシリアとに分かれ、さらにその双方でもさまざまなバアスを生み出していたにもかかわらず、国境を越えるアラブ統一主義を主張し続けた。同様に、「ダーイシュ」とその仲間たちも、際限のない分裂がその組織的発生の一条件であるにもかかわらず、イスラーム的統一を主張する。さらに、バアス党も「ダーイシュ」も、欧米と欧米化に反対する前提から発しながら、同時に、双方とも外部勢力の競合に深く関係したところから現れたともいえる。アリー・サーリフ・サアディーによれば、1963年、バアス党は、冷戦下の反共政策ゆえに「アメリカの手引きで」イラクで政権をとるに至った。「ダーイシュ」はと言えば、人員面であれ物資面であれ、外部との関係に肩までどっぷりつかっている。そして1963年のバアス党は、ナセリズムと湾岸並びにヨルダンの保守体制との闘争のうえに成り立っていたアラブ中東域内の均衡をその双方に敵対することにより破った。「ダーイシュ」とその姉妹組織も、現在同様のことをしている。つまり彼らは、シリアだけではなくアラブ全土の革命によって描き出された体制と民衆の闘争という構図に異を唱えている。そしてバアス党は、ダマスカスとバグダードで可能だったからと、レバノンまで治安面で侵略しようとした。愚かで場当たり的なやり方であったが、ジャラール・マルハジュなるシリアの治安関係組織の将校が起用され、彼はベイルートで逮捕、起訴された。60年を経て、レバノンは治安関係の種々の爆発に見舞われ、「ダーイシュ」がシリア近隣で勢力を拡大するにともないマージド・マージド(アル=カーイダ系組織「アブドゥッラー・アッザーム部隊」指揮官)のような人物が現れた。

(後略)

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( 翻訳者:辰巳新 )
( 記事ID:32502 )