コラム:なぜパレスチナ人はイスラエル国家のユダヤ性の承認を拒否するのか
2014年01月23日付 al-Hayat 紙
難民キャンプのパレスチナの人々(本紙)
難民キャンプのパレスチナの人々(本紙)

■なぜパレスチナ人はイスラエル国家のユダヤ性の承認を拒否するのか

【サニーヤ・フサイニー】

パレスチナ人がイスラエル国家のユダヤ性を承認することを妨げる理由は、いくつか存在する。イスラエルの現政府は、現行の紛争状況に終止符を打つ恒久的な合意到達の条件として、その承認を求めているにもかかわらずである。アメリカもまたイスラエルのこの条件を支持し、パレスチナ人に対してこの条件を満たす必要性を訴えている。しかし、イスラエルをユダヤ人の国民国家と承認することは、パレスチナ人にとって大きな打撃となる条件であり、望ましい和平に至ることを真に妨げるものである。右傾化にある現イスラエル政府がこれを強調することは、同政府にパレスチナ人と共に解決に至ろうとする意図が完全にないことを反映・確認するものである。

1995年のイツハク・ラビン元首相暗殺後、イスラエルの指導部は、パレスチナ人との包括的な関係正常化、すなわち、彼らに完全な主権国家を付与し、その首都として東エルサレムを譲渡することの実現は不可能であるとの確信に至ったものと思われる。イスラエルでの世論調査の結果はこうしたアプローチを確証付けている。

イスラエルはアラブ人やパレスチナ人との数十年におよぶ闘争の中で、彼らに対して自国のユダヤ性の承認を、敵対関係を終わらせるための条件として提示したことはなかった。イスラエルがこうした条件を示し始めたのは、現在のベンヤミン・ネタニヤフ首相の時代からであり、同首相はユダヤ性の承認をパレスチナ人との解決に到達するための基盤と見なした。1967年と73年の戦争の終結、アラブ人との交渉開始以後、イスラエルは安全保障が確立した国境内での自国の存続の権利を承認するというアラブ人の譲歩を引き出すことを、依然志向し続けている。また、このことは1993年のオスロ合意締結時に、イスラエルがパレスチナ人に課した条件にも見て取ることができる。1979年の第一回キャンプ・デーヴィッド合意、1991年のマドリード会議、または(93年の)オスロ合意の過程において、イスラエルは自国のユダヤ性について見向きもしなかった。

イスラエルが国家のユダヤ性という用語をパレスチナ人との交渉・会議で挿入し始めたのは、終局的な解決策を模索する枠組みで行われた1999年の第二回キャンプ・デーヴィッド会談の会期中だった。パレスチナ人を一方において、ユダヤ人の国民的な「イエ」の構築の必要性が話されたが、このときパレスチナ人にイスラエル国家のユダヤ性を承認することは要求されなかった。この後、米国のコリン・パウエル元外相が2001年にユダヤ国家という表現を使用し、ジョージ・ブッシュ元米大統領も2003年のアカバ・サミットで同様のことを行った。同サミットは、アメリカの理解努力とイスラエル寄りの政治的立場に立った慣例通りの調整の枠組みで実施された。イスラエルのアリエル・シャロン元首相は、2003年にユダヤ国家という表現の使用を主張した。同年、クネセトは国家のユダヤ性の深化と、それに対するパレスチナ側の譲歩を引き出す働きかけを呼びかける決定を下した。

(後略)



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:辰巳新 )
( 記事ID:32671 )