コラム:フランスにおけるイスラームの現状、融合と分裂
2015年11月19日付 Al-Ahram 紙

■フランスにおけるイスラーム:抗議、アイデンティティ、組織

【ターリク・ダハルージュ】

パリのテロ事件に続く論争は、ダーイシュ(イスラーム国)がフランスと西洋一般に対して行うテロとの闘いの一部にのみ集中している。実際に起きたことの直接的な説明とはなるのであろうが、それではある一つのメッセージを送ることになる。つまり、いま私たちが直面している「フランス版9.11」は、過去25年以上にわたって積み重ねられてきたフランスの政策とは無関係だというメッセージだ。私たちから見ると、それはあのテロ事件とその余波の背後に潜むさまざまな出来事を読むには、あまりに単純すぎる。

私たちが思い出すのは、1989年の「ベール事件」だ。それはイスラームとフランス社会の衝突の最初の火花だった。パリ郊外にある学校の責任者が、1989年度の最初にベールを着けた三人の女子学生に登校を禁じたのである。この禁止の理由は、フランス共和国の教育制度における宗教的中立の原則(世俗主義)にベールが反しているということであった。

この火花は、アイデンティティの表明と他者を受け入れるという問題の枠組みのなかで、イスラームとフランス社会の衝突の象徴となったが、これこそが、その後25年間続くイスラームとフランス社会の緊張関係と衝突の基にあるのである。

さらに加えるべきなのは、地域的な要因、とくに中東における紛争が果たしている負の役割だ。最も重要なのは、1979年以降のイランの政策、1990年のイラクのクウェート侵攻、90年代のアルジェリア危機、そして最後にやってくるシリア危機、そしてそれに対するフランスおよびヨーロッパの政策が招いた余波である。こうしたことがフランス社会にアラブ人とイスラームに関するネガティブな心象を植え付けることに貢献した。そうした心象は中世の教会での説教を通して、またダンテの作品を介して、啓蒙主義の時代のボルテールやモンテスキューの作品を通して、何世紀もかけて作られたものであり、なにか危機的な状況が生まれるたびに人々の意識のなかに自動的に呼び起こされるのである。

こうしたことは、フランスのイスラームに対する制度的な二重性と並行している。そこには二つのモデルがある。ひとつは1990年にフランス政府が設立した、フランス・イスラーム評議会という公的な団体で、アルジェリア政府が管理するパリの大モスクの役割に代わるものであったが、その後、2003年には内務省に属するフランス・ムスリム信仰評議会になった。

もう一つのモデルは、非公式のイスラーム諸組織、つまりフランス政府とは無関係に、世界的なイスラーム組織や出身国と連携し、イスラーム教徒の移民が運営するモスク、社会的、文化的な団体である。そしてこれはさまざまなエスニシティや方向性を持つイスラームを非公式的に代表するのである。

公式のイスラームと非公式のイスラームとの衝突は、フランス、そしてヨーロッパをある失敗に陥れた。フランスのイスラムは多様な思想的方向性を持つが、その有効な組織的基盤として、文化的、社会的な団体および様々なモスク(といったイスラームの構成要素)を包摂することに失敗したのである。

またフランスのイスラームに対する制度的な矛盾は、イスラーム団体であれ、布教組織であれ、世界的なイスラーム組織の支部であれ、これらイスラーム関連の組織の置かれた状況のなかにある亀裂の所在を不明確にしてしまった。これらの諸組織は、各々の政治的な目的と並行するような宗教的方向性をそれぞれに持っているというのに。

これに関しては、私たちはフランス・ムスリム組織連合のような、イスラーム関連の諸連合、文化的、社会的諸団体の陰に隠れ、イスラームの諸組織が動いているのを観察することができる。フランス・ムスリム組織連合は、200の団体が加入しているが、ムスリム同胞団やアラブ世界のイスラーム諸政党と強い結びつきを持つ。このようなイスラーム諸政党は移民のつながりを介して、フランスの領土に地理的、文化的に拡張していくのだ。

さらには、エスニシティの違いを超えてフランスのイスラーム教徒が真に連帯することの無さもある。たとえば、アラブ人とトルコ人が集まるモスクなどない。そのうえ、アラブ系のイスラム教徒の移民の間にも異なるイデオロギー的な志向があり、保守派とファンダメンタリストで分断されているのだ。その結果、イスラム諸団体はいつも、コミュニティのイデオロギー的な傾向に応じて、激しい競合関係に置かれることになる。多くの場合、これらの団体はチュニジア、アルジェリアといった出身国、あるいはアラブ、ベルベルなど人種・民族単位で移民たちに照準を合わせる。その結果、それらのどれもが、移民の問題に包括的な形で対応することができず、とりわけフランスの郊外で最も周辺化されている集団を思想、イデオロギーの側面からコントロールすることができなくなっているのである。

しかしながら、紛争の両当事者であるフランスとフランスのイスラーム教徒たちがまだ答えていないのは、次のような問いである。融合しなければならないのはイスラームなのか?それともフランス社会に融合すべきなのは、イスラーム教徒なのか?二つの問いの間には、揺れがあり、はっきりとしない複数の答えがある。それを感じ取れるのは、次のような点においてである。フランス当局は包摂の手段としてイスラーム教徒コミュニティにモスク建設を許可しながら、それはイスラーム教徒という他者を受け入れることも、融合につながるよう社会のメカニズムへの参加を促すことも意味してはいない。

この結果、フランス、およびアラブ・ムスリムの大きな人口を抱える他のヨーロッパ諸国が直面している、イスラームの挑戦は二つの次元を持つことになる。ひとつは、できる限りイスラームのゲットーをフランスやヨーロッパの社会組織に融合することにつながる有効な政策を打ち出す必要性という、国内的な次元だ。彼らを集団的アイデンティティへの脅威と見るのではなく、あらたにプラスされるものと見ることが必要なのだ。

もうひとつは、外交的な融和の提起、アラブ・イスラーム世界に対する現実的で存続可能な政策という、国際的な次元である。しかしながら等式の片方、つまりヨーロッパのイスラーム教徒は中間の解決策を求めるようになった。それはフランス社会に融合し、イスラームにふさわしい地位を獲得することを可能にするような解決策である。それによって植民地主義の遺産から脱し、歩調を合わせなければならない現実として、ヨーロッパの市民権を手に入れるのである。

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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:39192 )