モロッコ:潘基文氏の西サハラ訪問の波紋
2016年03月20日付 al-Quds al-Arabi 紙


■モロッコと潘基文事務総長の対立の秘密は何か?

潘基文事務総長に代表される国連とモロッコ王国との間に発生した亀裂は、いまだ段階を追って深まり、それらの段階はモロッコ政府への挑発に寄与しているという個人的印象に行きつくほどである。まず、国連事務総長は、自身のモロッコ訪問のタイミングと、そのさい検討されるであろう諸案件を通じ、その訪問のアジェンダをモロッコ国王に押し付けようとした。

次に事務総長は、アルジェリアのティンドゥフにある難民キャンプを訪問し、モロッコに対する軍事的争いを続けてきた「ポリサリオ前線」指揮官との会談を行った。その争いを巡る公的な国連の立場に対しモロッコは明らかに見解を異にする中、これら(訪問・会談)は同国に敵対する側への明白な偏向とみなされる。また、同氏は西サハラの「占領国」とモロッコを描写するにとどまらず、西サハラにある国連の本拠地での「ポリサリオ前線」の旗の掲揚に立ち会った。

恐らくモロッコにダメージをあたえその怒りをかきたてたのは、潘基文氏の訪問と時を同じくして、モロッコからの海産品・農産品の輸入の凍結という、EUとの強い亀裂が起こっていたことだ。そして、それは先月25日にモロッコ政府とEUとの完全な交渉決裂に至った。

実際のところ、国連事務総長は1830年のフランスのアルジェリア占領の時代にさかのぼりうる西サハラの土地問題の沼地に踏み込んだのだ。フランスはすぐにリビアの地とモロッコを繋ぐところの南のモロッコの土地(ビレディカレグリト)を合併し、大きく拡大した。「仏領アルジェリア」は結果としてマグレブの東サハラと西チュニジアとリビアと北ナイジェリアまで拡大をつづけた。そしてフランスは西サハラをスペインと分割した。1962年その占領を終え撤退したが、一方で1975年にモロッコが「緑の行進」を通して返還を要求するに至るまで、スペインはいくつかの部分を占領した。

(後略)

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( 翻訳者:井森彬太 )
( 記事ID:40100 )