エジプトの偉大な知識人ビントゥッシャーティという女性の偉大さ
2016年06月16日付 Al-Ahram 紙

■千人の男に値する女性

【ファールーク・ジュウェイダ】


偉大な文人である故タウフィーク・アル=ハキーム(1898~1987)を前にして 、私は恥じ入って座っていた。そこにはフセイン・ファウジー博士(1900~1988)やザキー・ナギーブ・マフムード(1905~1995)、ナギーブ・マフフーズ(1911~2006)、サラーフ・ターヒル(1911~2007)、ユースフ・イドリース(1927~1991)、サルワト・アバーザ(1927~2002)、ルイス・アワド博士(1915~1990)もいっしょにいた。そして、アーイシャ・アブドゥル・ラフマーン、ビントゥッシャーティ博士(1913~1998)は、こうしたエジプトの知の巨人たちの間に存在するたった一人の女性だった。

当時エジプトでは、イスラムの礼拝について、奇妙な問題が持ち上がっていた。なぜ五回なのか、なぜ一回ではないのか、というのである。それが砂漠の中にあるイスラム以前の遅れた社会に課されたものであるというのであれば、我々はあらゆる点において進歩した社会にいるというのに、今もなぜそれが必要なのか、というのだ。家には水道があり、清潔さにおいては近代文明のすべての基準を超えているというのにと。この問題に対する意見は、必要だという意見と不必要だというものに、真二つに分かれた。

そのときビントゥッシャーティ博士は立ちがり、これらの巨人たちの前で驚くべき語りを披露した。彼女はこう言ったのである。礼拝は遅れた無知な社会のために定められたのでもなければ、礼拝の前の清めは清潔さを手に入れるための手段でもないと。礼拝は身体を日々の生活の問題から解放するために、いと高き創造主の前で行なう肉体的な一連の動きなどではない。そうではなく、礼拝は人間が謙虚な姿で主の前に立ち現れるための精神の旅路なのだ。そうすることによって、人間の精神は創造主と結びつく。礼拝は短い時間でありながらも、心が澄み渡る時間であり、体が安らぐ時である。しかしながら、それは人間が考えているよりも実は長い。なぜなら、人間は礼拝の中で、従順に、愛と寛容に満ち、心も精神も澄み渡った状態で神の天空を飛翔するからだ。礼拝(とその前の清め)を単に、生活様式や砂漠、そして(イスラム以前の)無知さといった状況が必要とした清潔さに帰するのは間違いだ。それは精神の喜びであり、赦しと寛容、そして日々の生活の穢れや過ちの清算への道なのだ。それは慈悲深さと赦しに至る日々の扉である。

その時、ビントゥッシャーティはこう言った。イスラムは崇拝儀礼の最も高いところに礼拝を位置づけたが、それは礼拝が義務だからというのではない。そうではなく礼拝こそが、人間とその創造主を日々つなぐものだからだと。

その時のビントゥッシャーティは、その論法、説得力、雄弁さにおいて、イスラムにおける礼拝の必要性について意見を対立させていた当時の知の巨人たちを驚かせた。私はまだ年端のいかぬ青年であったが、ビントゥッシャーティは私の目に偉大な人物と映り、その日から私は彼女の中に千人の男性を見ることになったのである。

(訳注:アーイシャ・アブドゥル・ラフマーン、ビントゥッシャーティ博士(1913~1998):
女性として初めて、スンナ派イスラムの最高学府であるアズハル大学で講義をした、エジプトの文人、イスラム研究者)

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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:40691 )