エーゲ海の真ん中でロブスターを追う
2016年06月17日付 Hurriyet 紙


島に暮らす親友、ニコスとロアンニスと共に小さな魅惑の冒険の旅へ…
人々はかつてロブスターを食べるために9時間も船で海に出て行ったことがあるだろうか?私は行ったことがある。さて、それだけの価値はあっただろうか?そしてどのようにして…

海岸とカフェがアフガン人の難民であふれているサクズ島に到着した。ニコスは私たちを税関まで迎えに来てくれた。パスポートコントロールの若いハンサムなギリシャ人の「どこに滞在するのですか。」という問いに「ニコス・クラドラスの船、ネメシスです。」と答えると、彼は微笑みかけてくれた。6か月間の滞在期間で、私たちはニコスといるとまるで級友のようであった。小さな島で…

溢れんばかりの難民をかきわけ、私たちの舟「ネメシス」へ到着した。船のキャビンに腰を下ろした。「ネメシス」は15メートルの「ハンセ545」。豪華なヨットである…

私の好きなタイプである「ロープ・リングに完全にバテンをあてたもの」、これはつまり、帆がマストもしくはブンバに巻きつけられた観光用の船ではない。父親の代からのやり方は、手首に力をいれて。小さなジブ帆は自分で風を捕まえポジションをとる。少ない船員でも驚くほど効率が良い。帰路で、島の南端から風上の北へ進むとき、タッキングを使って(ジグザグを描きながら)スピードはありながらも長い距離を進んだ、私はこの小さなヨットが好きになった。

ニコスの優しい妻であり、私たちの義理の姉であるレアが迎えにやってきて、私たちは夕食に「ホットザス」に行った。とても感じのよいタヴェルナであったが、料理は少々胃にもたれる、脂っこい、古めかしいタイプのものだった。ヨアンニスは私たちを笑顔で迎えてくれ、私のことをよく覚えていた。何年も前の「サクズ」というドキュメンタリーで一緒にカリン入りのミートシチューを作ったものだ。気が付くとさらに注文してしまったらしく、お腹いっぱいに詰め込んで食べ、夜食は少なくしなければならなかった。船へは歩いて戻った。

朝日が昇る前に目が覚めた。ロアンニスがパン屋から出来立ての「チュレキとシミット」をもってやってきた。朝の涼しさの中で出発すると、難民でいっぱいになっているアテナ号に海路を空けた。
北へとまっすぐ進む。向かい風が強くなっている。私たちは帆を広げた。島の北端に来たとき、より広範囲にわたる「アパズの風」を捕まえた。コーヒーとシミットと共に、トルコから持ってきたヤギの白チーズを食した。

ロヌッサ島へ向かう…。 私たちは西へと針路を変えた、すでに北風と波に乗っている。6時間船旅は続いた。午後には心地よい風と共に「プサラ」岬へと向かった。静かな漁師の島だ…。島の名もギリシャ語の「漁師」という意味らしい。

とても小さなタヴェルナである…。漁師の船長である男たちが座っている。ウーゾのある席から全く動く気配がない。朝捕らえられたロブスターたちはバスケットの中でまだ生きている。沸騰したお湯へとそれらが投げ入れられる際、私は外へ出てしまった。なぜなら海老たちが悲鳴を上げていたからである。

ゆであがった後、ロブスターが真一文字に二つに切られ、グリルされているとき、私たちも「サヴォウソース」を準備する。たっぷりのオリーブオイル、レモン、そしてマスタードだ。

新鮮で大きなヒメジが出てきた。とても素晴らしい…。これもグリルへと放り込む。ニコスによると島の周囲の70メートルの深さのところは完全な岩場で、これらは岩ヒメジという名前だ。もう少し調理した、愛すべきヒメジたちをギリシャ人のおばさんが乾物にした。フランス人は「骨の薔薇」と呼ぶ…。骨はピンク色になるのだ。

食べ終えたのち、人口460人の島を散策しに出かけた。丘の頂上にある教会、アヤ・二コラ(アギオス・ニコラオス)へは60段の階段を登ればたどり着く。1793年に建設されたらしい。漁師や航海士たちの聖人、アジズ・ニコラにちなんでいる。修繕のために閉まっていた。

アテネ大学の、教会の修繕責任者である女性は、手に小さなブラシを持ち、少しづつ作業している。1700年頃使われていたものと同じ、自然の材料からできたペンキを使っている。私の脳裏には、私たちの街のモスクの、プラスチックペンキで塗られた、色褪せず輝いているカラフルな修繕の様子が浮かんでくる…。
 (以下省略)

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:40822 )