人間性が死にかかっている!オヤ・バイダル氏から新刊ディストピア小説『犬を連れた子供たちの夜』
2019年09月27日付 Cumhuriyet 紙


もしオヤ・バイダル氏の新作小説は、「私たちの文学の最初の環境破壊のディストピア小説」として紹介されるとしても、この本は実際のところ今日の私たちの社会と人間性へ鉄槌を下す企てだ。

オヤ・バイダル氏は、70~80年代によく知られた政治活動家で思想家だった。1980年9月12日クーデター以後に10年以上に渡って国外での生活を余儀なくされた。私が思うに、この(母国から)遠く離れていたことが彼女を文学へと接近させたのだろう。まずは数々の物語を執筆して、その後90年代に代表作となる重要な小説作品の数々によって我が国の文学の代表的な作家の一人となった。

文学作品というのは、取り分け小説というのは、その時代を映す鏡なのだというのはいつも言われることである。オヤ・バイダル氏の小説作品も本当に80年代と90年代、この年代の社会全体と、特にまずは9月12日クーデター、その後でも社会主義のシステムの崩壊とともに大きな挫折に直面した先進的な考えの人々の人生を、その人々の精神世界を映し出すことで重要な「鏡」となったのだ。


オヤ・バイダルを小説家として際立った存在にさせているのは、ただ彼女が選ぶ様々なテーマだったり、彼女が作り出した登場人物たちではないのだ。それらに加えて時代の精神を反映する非常に印象的な表現の言葉というのも存在していた。読者をその文章へ捉えて離さず、文章のもつエネルギーによって影響力をもたせることも彼女は知っていた。
政治的なアイデンティティをもつ作家が容易に陥りやすい、何層ものイデオロギーの罠にも彼女は陥ることはない。自身の小説作品の数々においても、一人の小説家として幅広い視野を獲得することができた。恐らくは、最近の小説のひとつである『ゴミ捨て場の将軍』はイデオロギーへと傾いたことで、この見方からは外れてしまうかもしれない。しかしながら、総括すると、よく知られた言い方をすれば、彼女が時代の目撃者であるということもまた否定はできないことなのだ。


■ただ環境の話なのだろうか?

オヤ・バイダル氏の新作小説は、「トルコ学の最初の環境破壊のディストピア小説」として紹介されるとしても、本は実際のところ今日の私たちの社会と人間性に鉄槌を下す試みだ。その通り、小説において近い将来に起こりえて世界を脅威に陥れる長期の干ばつ、そのあとで洪水について語られているとしても269ページの小説の半分以上で今日の世界が、その場所の名前は明記されていないとしても容易にそれとわかるシリアの争いやそれを取り巻く人々の事件が語られている。山々で衝突する人々、砂漠で衝突をする人々、様々な境界線
、戦いの中に取り残された罪のない人間たち・・・

「燃えてしまった、壊れてしまった庭で未だにバラが咲く、自然も人間もその最後の息まで抵抗をしている。子供は壊れてしまった家の朽ち果てた庭で祈るバラの木の蕾を運んできたのだ、母親に。彼は私には理解ができない何事かをつぶやいていた、死の瀬戸際にいるその女の頬をなでながら。」(127頁)

作家は、以下のように考えたとしてもそれはもちろん正しいことだ。世界中での目の前でこのような冷酷な争いが何年間にもわたって続いているとすれば、その一方で人々の目の前で罪のない人々が、子供たちが殺されて、搾取されているのだ。たとえそれが銃弾でないとしても飢えで、病気によって何百万人もが亡くなっているとしても将来の環境もしくはその他の種類の災害を待つまでもない。実際のところ、災害のただ中にある時代を生きているのである。母親を父親を失ってしまい学校に通うことができない子供たちが私たちの周りに生きているとすれば、最もひどい災害と私たちは直面しているということになる。このような災害に対して声を上げることができないのであれば、人間性が、人間そのものが終わりを迎えているということだ。それは世界にも言えることだ。私たち自身に対して痛みを感じることもなければ、破壊されてしまった世界にも痛みを覚えることがないのだ。それは、この状態というのは私たちがもたらしたことであるのだ。一人一人すべての人間に、責任が存在しているのである。

環境と自然破壊がたどりつく場所は明らかである。今日から兆候が見られる災害が私たちの世界を待ち受けているのである。「世界を脅かした十年にも渡る大規模の干ばつの後に始まった降雨は何か月間にも渡って、ふりやむことを知らずに降り続いていた。」(17頁)

この中で手塩にかけて育て上げられた一人息子も、愛していた男も、争いの地域で発見された一人の女性が、彼女一人で、生きている世界との審判へと向かう。「世界の痛みというのが人間の心に一度でも触れるのを見ると、毎回新しい痛みを磁石のように体は引き寄せてしまう。」(86頁)

体の持ち主である一人の人間は世界が去って行ってしまうのを見て深い失望を、また同時に明日への希望を同時に生きること以上に自然なことには一体なにが存在するのだろうか。小説はまだ最初のページで寂れて、木造りの掘立小屋で、どうやら一緒に自殺を遂げたらしい、ある女性とある男の亡骸を見つける。その手から零れ落ちた、科学技術がもたらした産物の、ある小さな装置に彼らの最後の声を収録していたという。物置小屋の扉の前には、ありとあらゆる種類の破壊に対する自然の抗いを象徴する一輪のカモミールが咲いていたのだという。

小説の冒頭のこのシーンは同時に小説のラストシーンでありその間にある269頁の間に私たちは登場人物たちと世界に降りかかる事件の数々を私たちは見ることになる。

■犬を連れた子供たち

子供たちと犬たちというのは恐らくは地上の最も無垢な存在である。作家は、その本の中で生み出した「犬と共にいる子供たち」というメタファーによって、この無垢な存在を、未来を象徴する希望のシンボルへと変えている。「‟犬を連れた子供たち” とは戦争から、破壊から、飢えから、死から逃れ、母親や父親を失い身寄りのない子供たちのことだ。犬たちもまた、路上で見つけて自分を守るために飼い主になった野良犬たちたのである。」(220頁)


身寄りのない子供たちというのは、今日になって登場した新しい要素ではないのだ。間違いなくその他の例も存在することであろうが、私はヤシャル・ケマルの、第一次世界大戦時のアナトリアを舞台とした小説である『アリが水を飲んでいた』という小説において、このような要素が言及されていたということを思い起こす。その時にも争いの数々や、民族の移動などが起こった。そのような理由もあってアナトリアでは数多くの子供が母親や父親を失い路上や、荒れ果てた土地で身を寄せ合いつつ、頼れる人もなく、暮らしていく場所も住まいもなく生きていた。

オヤ・バイダル氏の小説において「犬と一緒の子供たち」は幅広い観念を喚起するイメージである。ゲズィ公園騒動における子供たちから身寄りのないストリートチルドレンへ、犯罪組織の手に落ちてしまった子供たちから戦闘員の子供たちにいたるまで、子供たちの年齢であるにもかかわらず単なるこどもである以上の存在である様々な子供たちのことを想起させる。
「逃げる子供たち、死んでしまった子供たち、彼らの眼には恐れも痛みも存在しない。ただ驚きの中に、当惑と少しばかり咎めるような表情で見つめる子供たち・・・飢えで死んでしまった母親の乳に吸い付こうとする黒い骸骨の赤ん坊。路上のごみ箱で路上暮らしをする犬たちとともに食べ物を探す、犬たちの口から乾パンをつかみとろうとする子供たち・・・唯一の願いは子供の亡骸を見つけて葬ることであるという母親たち。父親が暴行されるのをみつめる息子、母親がレイプされるのを直視するよう強要される青年・・・(89頁)」

しかしながら小説において日はやってくる。全てのこの子供たちは、未来の希望の花となりえるのだ。暗闇のただなかにある日々においてでさえ希望を失ってしまうのは、人間の自然な姿と相反するものだ。作家は私たちにそのことを語りかけている、全てのその絶望的な事件を物語る小説のページの中から。世界にはどれほどに巨大な奇跡が存在しているのかということ、人間の存在もまたこの奇跡に対峙して成長をしながら、それを愛して抱擁をすることも可能になるのだということを思い起こさせながら。

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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:47837 )