カイロ:映画と現実の狭間にある都市の姿(8)
2022年04月29日付 al-Quds al-Arabi 紙


■想像されるカイロ:映画と現実の狭間にある都市の姿について

【ムハンマド・トゥルキー・ラビーウー】

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建築家ハイリーが指摘するのは、エジプトの映画産業の歴史を通じてカイロは概して文化の中心かつ近代性の標識として描かれ、ロマンス化されてきたにもかかわらず、両映画ではカイロはひどく汚染された街として現れていることである。ここではカイロが騒音と粗暴者だらけの負のものへと変容している。このことは、1つ目の映画で監督がアフマド・アダウィーヤの歌「ああ、この世は混雑だらけ」を採用する一方、田舎では美しい鳥のさえずりのみが聞こえ、つまり(野蛮な都市の光景と田舎のロマンティックな雰囲気という)対比が創出されていることからもわかるだろう。ハイリーはこの対比は正確ではないと考える。エジプトの田舎ではいまだ清潔な水などの基本的なインフラが整っていないため、田舎にこのような安楽な生活の情緒が存在する可能性は正確ではないという。この映画的なイメージはまた、カイロについての幻想を生み出す。それはまるで我々はサーカスの中にいてそこから逃げ出さなければいけないかのような、いやむしろ近代化がもたらした都市の悪夢から逃れなければいけないかのような、あるいは、まるでそこに留まれば精神的崩壊に苦しむかのような、そのような幻想である。

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( 翻訳者:下宮杏奈 )
( 記事ID:53365 )