詭弁から暴力論まで(4)
2022年09月29日付 Iran 紙


 第四に、平和的手段によって自らの要求や反対意見を示し、法の改正や執行を求める集団や組織による抗議活動をイランでは時々目にすることがある。退職者たち、教師たち、SMAの子どもたち、ハフトタッペ[フーゼスターン州にある古代遺跡]の作業員たち、エスファハーンの農民らなどによる数多くの集会は、国内に平和的抗議活動が常に存在し、それらの多くが少なくとも過去一年間は責任者らの耳に届いており、考慮すらされてきたことを示す事例である。興味深いことに、暴徒らに賛同しているあの著名人たちは、ここ数年間の生活に関わる市民的な抗議活動に全く参加しておらず、抗議を行う人たちに心を寄せることもしなかった。

 第五に、根本から意味が覆り、暴動が問題視されず、国内の社会治安や経済安全保障を担う者らが無意味なものと見なされること、また他方では、こうした無法状態と、暴動に不満を抱く大多数の人々が無視されること–これらを「市民的」と称する事態がもたらす結論は、以下の二つしかない。すなわち、一連の出来事を解釈して語っている人は愚かなふりをしているということであり、同時にまた、外国人が目論む暴動を拡散させることにおいて何らかの利害関係を有しているということだ。

 最後に、最近の暴動を「市民的」不服従と解釈すること、また法律に反対した全ての人々に対してこの解釈を適用しさえすることは、海外メディアと一部の人物たちによるイメージ操作である。過激で、故アミーニー氏の死去とは関係のない、ましてやヘジャーブの問題とも無関係なスローガンが、抗議活動の破壊的方向性の中にも隠されているのであり、このことは、抗議活動がなぜ逸脱し、今や暴力的で過激で、流血を伴うプロセスを辿っているのかを示しているのだ。こうしたやり方と、一抗議運動をパフラヴィー朝の体制転覆を図るための革命運動に類比することは、本当に法の執行に抗議をした人々に対する裏切りであるばかりではなく、現在抗議運動を行なっている者たちが自らに課した目標ですらあったのだ。抗議をすることが目的なのではなく、体制転覆の意図があることを彼ら自身が明言している。政治体制が、体制転覆を企てる者たちに対しどのように対処するべきかは、説明するまでもなく明白である。

–了–

アリー・ハッググー
メディアアクティビスト

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( 翻訳者:OE )
( 記事ID:54359 )