2005-12-02  Hasan Cemal コラム:上位・下位アイデンティティを巡り(Milliyet紙)

 1960年代前半のアンカラでのことであった。私はアンカラ大学政治学部、通称ミュルキイェで政治学を学び、そこでの授業では政治、法律、経済、社会学、哲学もあった。4年間学んだが、クルドという単語を耳にすることはなかったし、アレヴィーという単語も同様であった。ラズという単語は笑い話で出てきた。厳格なチェルケス人であった亡くなった私の叔父は、この件が話題に上ると、「なあ、出自だの何だのって話はよしてくれよ」と言っていた。
 私はこのようにトルコについて学んだのだ。しかし、本当にトルコはこのような国なのだろうか?
 いいや違う。クルド人もチェルケス人もラズ人もいた。トルコという一つの土地には、多くの文化的背景を持つ人々が暮らしていたのである。しかし、私はこのことを政治学部では習わないまま、政治的知識を学んでいた。私が学んだこととは、本当の矛盾だった。

 なぜこのようになってしまったのだろうか?
 トルコは1920年代以降、特に1930年代から、新しい国民、新しい国民国家を創造することを目指す一時代を過ごした。時代に追いつくために、当時はほかに選択肢がなかったのかもしれないが、このトルコ化の過程には過剰なものがあった(ネシェ・ドュゼルが2005年11月14日付ラディカル紙で行った、ビルギ大学政治学部アイハン・カヤ准教授との議論はこの観点から興味深い)。いくつかの出来事は忘れ去られた。忘却を望んだ人もいただろう。
 アイデンティティは長年全く話題にならなかった。冷戦がそれに拍車をかけていた。東西陣営の形成が、アイデンティティに、宗教や民族の違いにヴェールをかけてしまったのである。
 しかし、ベルリンの壁が崩壊したときに、このヴェールも取り払われた。誰もが自分のルーツを探し始め、アイデンティティを自由に公表するようになった。民主主義の要件である諸権利を追求し始めたのである。

 私たちも同様であった。一方では民主主義の発展、他方では特に欧州連合への加盟プロセスと、南東部における混乱とPKKのテロが間違いなく、トルコにおける違いを明確な形で示すようになった。
 私たちは当惑した。それは覚悟ができておらず、よくわかってもいなかったからだ。
 暗記した紋切り型の知識ならあった。しかしこれらの知識も揺らぎ始めた。なぜなら、この知識では現実を理解も認識もできない状態になったためであった。トルコの国土における多文化的構造が、我々の目の前で急激な痛みをともなって開かれるたびに、危機に陥った。問題は次第に深刻化した。古い暗記や紋切り型の知識では解決できないのを目の当たりにするたび、内部での争いは激しくなった。
 ふと気づくと、かつての左派の若者たちやコミュニストの大物たちが、あるときから徹底的なナショナリストになっていたのである。昔のファシストと今日のネオ・ファシスト、そして軍国主義者たちが、腕を組んで前線を形成し、クズルエルマ連合(訳注:『クズルエルマ(赤りんご)』は、トルコ・ナショナリズムの定礎者とされるズィヤ・ギョカルプ(1876-1924)の代表的詩集)を作り上げていたのだ。彼らは共同声明を出すようになった。それも民主主義を無視した内容の。

 閑話休題。
 アイデンティティ問題は、下位であっても上位であっても扱いの難しい微妙な問題である。注意して考え、議論する必要がある。この観点から最近私が学んだ、大学教授デニズ・ウルケ・アルボアン氏の見方を引用してみたい(2005年11月27日付アクシャム紙)。
 「異なる国民モデルがある。国民は一種類ではない。トルコのようなあまりに均質ではない、民族的に異なる集団として自らを表現できるグループが存在する国においては、一種類の民族でもって一国民を定義することは難しい。ここから衝突が起きる。
 1930年代ならばそうすることが可能だった。しかし2000年代に世界経済の状況が変わった。もう目覚めるときです。
 時が経つにつれて、全てのことが問い直されるようになっている。すべての国家は本質的に、下位アイデンティティと上位アイデンティティを「問題として認識しているのなら」、それはすなわち問題があるということである。ただ、これを問題化することもある種の才能だ。なぜならこれはひとつの現象にすぎないからである。

 人が何故、下位アイデンティティが原因で互いに争い続けたりしようか。敵意を次々と生み出すようなアイデンティティ認識で、いかにして社会は一つの関係性を維持できるというのか? トルコにおいてはこれは極めて深刻な挑発に遭っている。完全に政治的な出来事となった。たとえ互いが全く異なった数々のアイデンティティを本当に持っているとしても、これらは一つにまとめられなくてはならないし、政治はこれを保障しなくてはならない。クルド人に、クルド人であるというだけで何かを与える必要はない。与えられもしない。
 しかし、全くのトルコ共和国国民である人々のためには、それぞれの望む民主的な権利、自由の承認が必要である。これがトルコ共和国国民の権利なのである。
 トルコ共和国国民がそれぞれの下位アイデンティティを表明できることが、権利である必要がある。しかし、本来上位アイデンティティというものは、互いを結びつける傘の役割をするものだ。これは祖国への背信などではない。私は全く反対のものが祖国への背信たりうるだろうと考えている」。
 あなた方は、どうお考えだろうか?

URL: http://www.milliyet.com.tr/2005/12/02/yazar/cemal.html

(翻訳者:幸加木 文)

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