2006-12-12  Akif Emreコラム:戦争、文化的遺産、そしてアイデンティティ――バクダードにおける「記憶」の抹消・収奪――(Yeni Şafak紙)

アフガニスタンとイラク占領の口実として考えられている「9.11」が仮に起きていなかったとしたら、果たして戦争の言い訳は何であっただろうか?アフガニスタンで起こったバーミヤン石仏の危機に際して、アメリカが人類の文化的遺産に対して示した敏感な反応を覚えている人なら、バーミヤン石仏の危機は、それだけで、開戦理由になったと考えるだろう。もはや思い出すのさえ難しいが、「9.11」の直前、タリバーン政権によって爆破されたバーミヤン石仏は、ほぼ、世界史上初めて戦争の理由となった芸術作品という称号を得るはずであった。明らかになった芸術の危機は、アメリカにとっては、現在も続けている戦争の口実のなかで最も説得力のあるものたりえるだろう。アメリカが、実際のところ、芸術的、歴史的遺産の名の下に戦争を考えられるほど人類の遺産を輩出した文明を象徴した存在だと見なし得るだろうか?第二次世界大戦期に、アメリカがドイツの大学都市ハイデルベルクを爆撃対象から外したことを踏まえれば、この問いに「然り」と答えられる。ただ、「今の状況はそうか?」と申されましょう。

イラクで起こっている、とりわけ内密に行われている文化的遺産の破壊と収奪に目を向ければ、状況は全く見るに堪えないものだ。なぜなら、事態は、単なる物質としての文化的遺産を奪い壊すだけではないのだから――ここで重要なのは、芸術的・文化的遺産を踏みにじられた社会が抱えている「粉々になってしまった」尊厳や社会の中に息づいていた精神や意識が奪い去られたことなのだ・・・。

文化的遺産が奪い去られることは、社会にどのような痕をのこすのだろう?文化的遺産が抹消された結果、社会の持っていた記憶に疵(きず)ができることは明らかだとして、その記憶は、誰がどのように奪い去ったのかという文脈へと変質していく。無論、大災害によって建物が壊れることと、占領者がある国民の尊厳やアイデンティティを貶めんがために収奪することの意味は同じではないだろう。

イラクでは日々起こる虐殺ほどには目に付かない虐殺が起こっている、ひっそりとだが・・・。バクダードは、モンゴル襲来以降最大の攻撃にさらされている。より正確には、、イスラム文明と古代文明の屋主たるバクダードで、歴史的遺産に対する大量虐殺は既に起こってしまったし、世界中は既に沈黙してしまった。石仏破壊を開戦の口実としたアメリカそして西側世界が、バクダードの図書館に所蔵されていた何十万冊という写本群を灰にし、歴史的財産を持ち去った挙句沈黙している意味は、一体なにか?

イスラム文明の最も重要な財産は意図的に奪われ持ち去られた。これらは、戦争の期待された結果でも、統制不行き届きの結果でもなく、意図的に組織された組織的収奪・窃盗という軍事行動だった。歴史的遺産の窃盗がどれほど巨大な産業活動であるか今更口にする必要はない。但し、これに加えて、歴史的遺産の組織的に目的を示した上での抹消を背後で支えている戦略や思考を解明しなくてはなるまい。

バクダードで行われた収奪は、ちょうど、モンゴル帝国の場合と比較することができよう。遊牧モンゴル政権は、この壮麗な都市を占領する際、彼らの眼前にあった歴史的遺産を破壊し、その後で勝つことの脆さを思い知った。彼らは、遊牧集団が華麗な文明に対して抱く「壊したい」衝動に従って行動した――文明ひとつの智識と思惟の宝庫である図書館収蔵資料のうち数百万冊の書物が燃やされ、川へ投げ捨てられたのだ。今日、モンゴルによって殺された人間の人数を嘆くより、破棄された書物の冊数を嘆いているのが、人の性というものだが。

一方、世界のローマを主張するアメリカは、バクダードの持つ「歴史の厚さ」を前にして、自らの「歴史の薄さ」や「根無し草性」に思い至った。バクダードにはイスラム文明の、ひいては人類史の遺産が収められていた。国立博物館だけで15万点もの資料が収蔵されていたのだが、そのメソポタミア文明とイスラム文明に至る人類史の遺産は、アメリカ人の手で灰燼に帰し、あるいは持ち去られた。こうして、ひとつの社会、あるいはひとつの文明の記憶は消去を求められた。記憶や矜持が抹消された社会に突拍子もない装いを施すのは、はるかにたやすい。

バクダードでは人命だけが失われているのではない。都市ひとつ、つまり、社会ひとつ、文明ひとつの記憶が失われているのだ。何故なら都市とは社会の記憶なのだから。社会を形づくる思想は、都市の道端や記憶の詰まった場所で育まれるものだ。すべての破壊は、都市の物質的財産に対してのみならず、その都市の精神に対して、つまり、その社会の今日までの営みに対して振るわれた拳(こぶし)――記憶を葬り去る拳なのだ。

「自分たちとは異質だ」とされた文明の様々な価値を前にして、失った側の人々は、彼らがそれまで自らのものとしてきた文明のイメージや記憶そのものである都市を、そして護ってきた文化的価値を、葬り去る。

文明の担い手たる意識が失われ国民的矜持が粉砕された社会は、文化をはじめとした様々な意味において、より容易に植民地化されるであろうと考えられる。記憶が失われ、文明の担い手たる認識が欠落した社会には、より容易に「社会工学」を適用することが可能だろう。開戦と同時に、社会工学として、大中東構想(Büyük Ortadoğu Projesi [略称BOP]:訳者)が語られるようになったのは偶然だろうか?

URL: http://www.yenisafak.com.tr/yazarlar/?t=12.12.2006&y=AkifEmre

(翻訳者:長岡大輔)

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