コラム:アラブ・イスラーム社会における読書の必要性について
2009年09月20日付 Al-Ahram 紙

■なぜ私達は読まないのか?

2009年09月20日付アル・アハラーム紙(エジプト)論説面

【ラガブ・アル=バンナー】

 全てのムスリムは、アッラーから預言者(彼に神の祝福と平安あれ)に下された最初の命令が、「読め」であったことをよく知っている。この神聖な命令は、あらゆる時や場所で、全てのムスリムが従わなければならないものである。それにもかかわらず、全てのムスリムは、「読め」と命ぜられたウンマ〔イスラーム共同体〕が「読んでいない」ことを知っている。そしてそのために、ウンマが多くのものを失い、今も失っていることを。

有名な思想家であるカマール・アブルマグド博士がこの状態について、「ウンマの何百万の人が読んでいないし、読むことを好まず、また読む人を好まない」と表現したのは不思議なことではない。これこそがイスラームの遺産なのだ。もしムスリム達が、彼らの状況を変えるために「読む」ならば、彼らは教育され、文明化されることだろう。そしてウンマが危機の中にあることを悟り、復興を実現させるため、ウンマの力を結集することだろう。復興は善意や空想だけでは実現されない。それは権力が、理性と知識をあらゆる権力の上位に置いたとき、実現されるのだ。

私達は書籍の販売部数の統計で満足してはいけない。それはどう見ても実数の10%にもならないのだから。また販売された本の数と、実際に読まれている本の数は分けねばならない。中には単なる見栄か、文化的である振りをするため、あるいは所有欲、または単に値段が安いために本を買う人たちもいるのだ。ダール・ル・マアーリフ〔エジプトを代表する書店・出版社〕の社長であった故サイイド・アブンナガー博士が私に言ったことを思い出す。彼はエジプトで初めてブリタニカ百科事典を輸入する契約をした。多くの巻から成るこの本を買おうとした人達の大半は、部屋の装飾と一致するような色の装丁にするよう条件をつけた。彼らは装飾の一部として、書斎の棚に百科事典を置いたのだ!

 読書する人達の中にさえ、本に書かれている思想の前で立ち止まり、そこから学んだり、議論したりしない人がいる。カマール・アブルマグド博士が言うように、何百万のムスリムが昼夜クルアーンを読んでいるのに、章句の意味や意図を理解せず、洞察や知識を得るわけでも、出来事や人々に対する振る舞いや扱いも変えることもない。そうして意識や知識を高めることで、何百年も経った本を引用しながらクルアーンの解釈者が繰り返している内容こそ、過激な思想や誤った理解、流血の禁を破る行為の温床だと悟る力を持つこともないのだ。時も場所も移ろっており、昔の学者たちの発言は過去の時代の産物であって、その思想は時代の制約を免れないというのに。理性に基づかず、分別をもたらすことも、行動に結びつくこともない知識に利点はない。かつてイマーム・マーリクはそれを次のように表現した。「行動に支えられない知識を私は好まない」。

 知識がもはや本の中だけではないということは本当だ。知識を得る手段はインターネット上や、いくつかの新聞、メディアの中にもある。しかし本は知識や、真摯な文化のための基本的手段であり続けている。サラーマ・ムーサー〔近代エジプトを代表する知識人の一人。1887 – 1958年〕 の試みは考察に値する。彼はヨーロッパに住んでいた頃、理性に光を灯し、胸に勇気を送り、文明化した知識人になろうと決意させたものを、いかに読書から得たかについて語っている。読書をすることで彼の理性は古今の最も偉大な知性に触れ、暗黒時代の思想から解放され、知識を得て、その知識によって社会的な責任を背負った。そして人間が陥っていた迷信の危険を理解し、どのように魔術や迷信への信仰から、知識や実験への信仰へと移り、不可知を読み解く幻想から、現実を読み解く真実へ、思想の奴隷となり従属するという屈辱から、思想の独立という誇りへと移行したかを語っている。文化は彼に、独立した考察や思考の力という地平線を切り開いた。そして彼の生活をより生き生きしとしたものにし、存在に対する彼の理解をより深いものにした。もはやサラーマ・ムーサーは、思考の自由の制限、本の価値の無視、迷信への執着、昔の本に書かれていない思想や科学的真実の拒否といった子どもじみた遊びを捨てた。

戦争や条約が人類の生活を変えたことは間違いない。だが変化が知識の進歩の結果もたらされることも真実だ。新しい発明、機械、方法の出現は、変化のための武器である。本というのは新しい考え方や理論のための容器である。そのため政治家や軍人は、思想家や発明家の後ろを歩く。この世は本によって変わったのだ。

 宗教書は人間の精神を変えた。東側と西側の冷戦は、カール・マルクスの書いた本の結果起きた。伝統的な資本主義システムは、アダム・スミスの書いた本の結果であり、破壊的なナチズムの理論はヒトラーの『わが闘争』の中に結晶化した。本は精神や教義を変えてきた。そのいくつかは今日にいたるまで論争や衝突を引き起こしている。力の教義についてのニーチェの本のように。あるいは種の起源や進化論についてのダーウィンの本のように。また哲学者の本やスーフィズムの極端主義者のように。また作者が想像しなかったような進歩や枝分かれを遂げ、新たな本を生み出した本が何十とある。最近の例では原子力の生産と原子爆弾へと研究者たちを導いたアインシュタインの本がそうだ。

偉大な作者達の本で教育された人が、テロあるいは人間の理性の制約といった罪を犯すことはない。流動的で生き生きとした社会では、新しい思想が現れ、思考や変化、一般的に受け入れられた真実や、広まっている価値の再考を促す本が現れる。それに対し停滞した社会では、閉じた輪の中で社会は動き、その中で同じ思想を再帰させ増大させる。そして先人の遺産を全て残そうと望み、それに聖性を付与し、飛び越え前に進ませることを不可能にする。

どうしたら全てのアラブ人やムスリムが、彼らとその社会に向上と発展を実現する読書の価値を悟るだろうか。この問いへの答えは議論し続ける価値がある。

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( 翻訳者:平寛多朗 )
( 記事ID:17527 )