Oral Calislarコラム:故レフテルは、生粋のビュユクアダっ子
2012年01月15日付 Radikal 紙

1993年に家族でビュユクアダ住民になり、レフテルの隣人となったことは、私の人生に違った一面を与えてくれた。

それは1965年のことだった。レフテルはフェネルバフチェで現役を引退した後、メルスィン・サッカークラブにトレーナーとしてやってきた。私はタルスス・サッカークラブでプレーしていた。レフテルは40歳、私は19歳だった。その試合で一緒に撮った写真を、友人が何年も後に送ってきた時はとてもうれしかった。写真にレフテルと一緒に写っているうれしさを感じた。

1993年に私たちも家族でビュユクアダ住民になった。夢の中の、少年時代の伝説であるレフテルの隣人になったことは、私たちの人生に違った一面を持たせた。私は薬剤師アヴニの店で、彼と延々とサッカー談義や過ぎし日々の話しをしていた。 レフテルはファッショナブルに着こなし、自分をかっこよく見せることを好んでいた。二人で一緒に写っている写真を興奮して見せたのだが、彼はあまり気に入らなかった。「太って見える。こんなんじゃなかった」というような反応を示した。薬剤師アヴニがその写真を中央薬局のショーウィンドウに飾ることも、こうした理由からあまり望まなかった。しかしその写真は私の誇りとして残った。

レフテルはイスタンブル出身だったが、本来はビュユクアダ出身だった。彼の娘、婿、孫たちはビュユクアダ出身だった。私たちが彼と初めてちゃんと知り合う機会が あった90年代、彼の一番の親友はヨルゴだった。ヨルゴは70歳を超え、レフテルは70歳近かった。規格外で、生き生きしていて、特に驚くべき形で進む会話を聞くのは面白かった。彼らはまだ暗いうちにレフテルの船に一緒に乗り、ビュユクアダの背後にあるタヴシャン島に行き、(彼らの話によると)裸で海に入っていた。彼の親友の一人は、元水泳代表選手のドアン・ベイだった。

夏の間夜になると、レフテルと彼の親友たちはビュユクアダの中心にあるコーヒー屋で会い、何時間も続くおしゃべりに熱中していた。まずドアン・ベイが、次にヨルゴが亡くなった。レフテルのおしゃべり仲間は減った。終始、彼の傍らにいた大親友で、最も腹を割って話した友人のアゼリ・ハサン・エフェンディは、その頃、彼を笑顔にした最後の人物の一人だった。

私たちは彼から、島やサッカーの昔について忘れられない話を聞いた。彼は、アタテュルクのビュユクアダ訪問、かつての手袋をしたギリシャ人やアルメニア人の運転手たちの上品さを語ってていた。また彼は、アタテュルクがビュユクアダに来た日のことについて何回も話すのを楽しみにしていた。

「アタテュルクを覚えていないわけがあるか?私たちは彼の許に行って握手し、警察が私たちを追い払ったんだ。ある友人、もう亡くなっているが、アルバニア人だ。誰がアタテュルクの手を先につかむか、と口々に言っていた。(中略)警察官が彼の左右にいた。私服警官だった。彼らから逃げた。逃げたが、すぐに私たちに追いついた。しかしアタテュルクは私たちをなでた。彼は私たちを気に入っていた。そして、『子供たちを放してやりなさい』と言った。私たちは彼と一緒に、ヨット・クラブ(現在のアナドル・クラブ)に行った。一晩そこにいて、帰った。」

彼が代表でプレーしていた時に、いまでも義理の兄弟のところで、週給で電気工事士の見習いをしていると言った時には驚いた。トルコのスーパースターであった当時も、彼の生活がこれほど素朴で普通であったことは、彼の独自性の一面にしか過ぎない。フェネルバフチェでの試合を終えると、スパイクを肩に、トラムに間に合うように走っていたこと、一刻も早くビュユクアダに行こうと必死だったのは、レフテルの実像の一部である。

1994年の歓談では、彼はビュユクアダへの愛と当時の素朴な生活について以下のように説明した。「あの頃、火曜と木曜に練習があった。私たちはサッカーが好きで、望んでやっていた。私たちはアマチュア精神でチームのためにプレーしていた。今のサッカーには金がある。(中略)私は大きな可能性を手に入れた。ニースに家があった。金はたくさんあり、欲しい車を買うことができた。しかしビュユクアダは何よりも大事だ。島がこのようになると知っていたら、決して戻らなかった。絶対に戻らなかった。(・・・)昔、大人たちが私たちに何か言った時、気を付けの姿勢で彼らの前へ立ち、彼らは私たちにいろいろ用事を言いつけていた。 (オラル・チャルシュラル『ポートレート・ブック』エヴェレスト出版)

■尊敬されたが、家に石を投げられもした

レフテルは生まれも育ちもビュユクアダである。(キプロス情勢に関連して)1955年9月6、7日の事件の中でも最も激しい襲撃が島で起きた時、扇動者はレフテルとその家を標的にした。彼はトルコサッカーの人気者だった。ゴール王だった。伝説だった。人種差別主義者はそれなのに、ためらうことなく彼を襲撃した。

襲撃を聞きつけた友人たち、つまり当時のサッカー・トルコ代表選手だったバスリ(・デイリムリリ)、ナジ(・エルデム)、ジャン(・バルトゥ)たちは、急いでビュユクアダに向かい、レフテルを襲撃する人たちに対し彼を守った。
のちに、歓談の際に、「わかるかい?(島の人たちは)今は友達のようにふるまっているが、彼らの父親の中には9月6,7日の襲撃者、略奪者らのリーダーもいるんだ」と言っていたのを聞いた覚えがある。

彼の親戚は世界中に散らばったていた。多くはアテネにいた。さまざまな時期に起こった襲撃の影響で、ビュユクアダからギリシャ人は「一掃」されていたのだ。 島で夏が終わるとき、車でアテネに行くのが彼の楽しみだった。数か月を姉妹、甥、姪の所で過ごした。飛行機に乗るのが怖かったのが、車で旅する本当の理由 だった。

一回アテネへの道中で事故を起こした。入院した。去年アテネへの最後の旅路で心臓発作を起こした。フェネルバフチェのアズィズ・ユルドゥルム会長の尽力により、特別機でトルコに搬送された。この心臓発作は彼を大きく弱らせた。徐々に、コーヒー屋に車いすで来るようになった。最後に会ったのは11 月だった。寒い中、彼の妻は島を散歩させるため外出させたのだ。

もう、ビュユクアダにレフテルはいない。ビュユクアダの歴史の重要な1ページは、もう閉じられた。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:25214 )