東遊運動110周年記念のシンポジウム開催される
2015年01月19日付 VietnamPlus 紙

 1月19日午後、ファン・ボイ・チャウが首唱した東遊運動110周年(1905-2015)を記念して、知識出版社とハノイ・フランス文化センターによるシンポジウム「ファン・ボイ・チャウと東遊運動」が開催された。
 20世紀初頭、ベトナム社会は、歴史的転換期を迎えた。「欧米の文化が雨風のようにどっと流れ込む」時局を前に、そして民族存亡の危機を前に、当時のベトナムの進歩的知識人たちは、もはや国を変革する道しか残っていないことを認識した。
 1904年5月、志士ファン・ボイ・チャウと彼の数名の同志たちが、「ベトナム国を回復し、独立政府を立ち上げる」という宗旨を掲げ、維新会の設立を宣言した。彼らは、ベトナムにとって「同文、同種、同州」の国であり、強盛の勢いにのっていた日本に目を向け、日本政府に対し、ベトナムがフランスを打倒するための支援を乞おうと、維新会はただちにファン・ボイ・チャウを日本へ送った。
 ファン・ボイ・チャウが日本に到着した時は、ちょうど日露戦争が日本の絶対的勝利によって終結した時で、このことはベトナムの志士たちの士気をさらに昂揚させた。
日本人は人材育成の支援を承諾し、ファン・ボイ・チャウと彼の同志たちは、東遊と呼ばれる広大な運動となった、ベトナムの青少年たちの日本留学運動を推し進め、留学生の数は、最も多い時には200人を超えた。
 しかしながら、運動が順調に発展するそのさなか、フランスと日本は日仏協約を締結、ベトナムの学生たちは、厳しい財政的困難とともに解散に追いやられ、最終的には彼らのほとんどが、日本を去らねばならなくなった。
 ファン・ボイ・チャウの人物と歴史について、現在トップクラスの専門家の一人であり、50年以上に渡ってファン・ボイ・チャウの研究を続けてきたチュオン・タウ教授は、約4年という短い存続であったものの、強い情熱を抱き、辛苦に耐え忍ぶ伝統を受け継いで、進歩を求めて勉学に励んだ、一部の新革命幹部を育て上げた東遊運動は、ファン・ボイ・チャウそして維新会の革命運動における、偉大な功績として評価することができる、と述べている。
 この運動は、両国の近代史において非常に重要な「越日間の友情」関係のエポックメーキングとなった。
 東遊求学運動の直接の主催者でありリーダーであったファン・ボイ・チャウは、20世紀初頭のベトナムの、最大の革新思想を持った先駆的革命家として、真に崇敬するに値する人物である。
 ファン・ボイ・チャウは、救国への道を模索する過程で、「新しいベトナム国」の樹立を早期に主張した人物であり、「海外に目を向けた最初の人物-太平洋の視野を持った人物」、「国際連携の思想を最も早く有した人物」である。
 今から110年前の運動ではあるが、東遊運動は、現在のベトナムのドイモイ政策を進める上で、その内容・進め方など、参考にできる価値を依然として有している。東洋そして東南アジア諸国における当時の民族・民主革命運動には、いくつかの共通点を容易に見出すことができる。
 これらの国々の歴史を、その類似点を通して概観すれば、アジア・太平洋地域の各国の民族解放闘争運動の共通法則といったようなものが浮かび上がってくる。この事が、近代史研究者たちに、新たな視界を開かせる、とチュオン・タウ教授は強調する。
 ベトナム教育出版社のダオ・ティエン・ティー氏(修士)によれば、東遊運動は、愛国の炎をおこし、独立獲得に向けた決意の志を呼び起こしただけでなく、多くの面において、特に思想の面において、ベトナムの歴史の転換を導いた。それは、教条主義から実践主義への移行であり、地域社会への参入をはじめとした世界への参入であり、とりわけ、君主制の理想から民主制の理想への移行であった。
 文化の面では、東遊運動は、ベトナムにとって、中国という国を飛び越えて初めて出合った文化との接触であった。幸運にも、ファン・ボイ・チャウはその革命運動の生涯において、日本という国の体制・人間・文化について、多くの事柄・意見を書き残しており、そこからは、ベトナムにとって親密な東アジアの伝統を有しながらも、非常に西洋的で近代的な日本の民族が浮かび上がってくる。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:田中あき )
( 記事ID:1265 )