国民の記憶のなかのスハルトとマルシナ

2025年11月11日付 Kompas 紙
国家英雄の授与式のあと、妹の写真を掲げるマルシナの姉
国家英雄の授与式のあと、妹の写真を掲げるマルシナの姉

Kompas.com配信
今年の「英雄の日」の記念日に、インドネシアは「国家英雄」のリストに新たに10人の名前を加えた。この称号が1959年に初めて授与されてから2023年までに、この国にはすでに206人の国家英雄が存在していた。

興味深いことに、その10人の新しい名前のリストの中に、歴史の表舞台において正反対の人生を歩んだ2人の名前が含まれていた。スハルトとマルシナである。

スハルトは、32年間にわたってこの国を支配した「新秩序(オルデ・バル)」体制の創設者であり、最高権力者であった。対照的に、マルシナは新秩序体制によって残忍に殺害された一介の庶民であった。

想像してほしい。数年後、新しい世代に歴史の授業が行われるとき、スハルトとマルシナについてどのように語られるのだろうか?

1993年5月初旬に残忍に殺害されたマルシナの物語を、スハルトと彼の新秩序体制に言及することなく語ることができるだろうか?

新秩序体制の犠牲者

1969年4月10日に東ジャワ州ンガンジュクのングルンド村で生まれたマルシナは、貧しい家庭の出身だった。その後、彼女は祖母と叔母に育てられた。若き日のマルシナは、教育費のために学校を中退せざるを得ないという辛酸を舐めた。

マルシナは、新秩序体制の開発の歩みから取り残された人々のうちの一人であった。貧しい家に生まれ、国家公務員でも軍人でもない家庭出身であったため、彼女が社会的地位を上げるための選択肢は極めて限られていた。彼女に開かれていた道は、工場労働者になることだけだった。

当初、彼女はスラバヤの靴工場で働いていた。その後1年して、勤務先を変え、東ジャワ州シドアルジョのポロン郡にある腕時計工場、PT チャトゥル・プトラ・スルヤ(PT CPS)の労働者となった。

しかし労働者として働く中で、彼女は新秩序体制の労働システムに直面することとなった。それは「低賃金政策」「パンチャシラ(インドネシアの建国五原則)産業関係」「産業紛争への軍の関与(インドネシア国軍二重機能)」といったものであった。

当時、マルシナの賃金は1日1700ルピアにすぎなかった。同じ年、米の価格は1kgあたり700ルピアであり、つまり彼女の一日賃金の41.18%が、1kgの米だけで消えてしまう計算だ。

1993年、東ジャワ州知事の通達により、労働者の賃金は約20%引き上げられることになった。本来であれば、マルシナとその同僚の賃金は1日2250ルピアに上がるはずだった。しかし、彼女が働く会社はその通達を無視した。


まさにその状況が、マルシナと仲間たちに、文明国家の労働法が認める手段、つまりストライキを取らせたのだ。

しかし、新秩序体制下の労働政治はパンチャシラ労使関係の旗印の下、安定を重視した。労働者は経営者や政府とともに「一つの大きな家族」であり、調和して生きるべきだとみなされていたのである。

その観点では、ストライキは非パンチャシラ的かつ、非インドネシア的な行為とみなされた(Vedi Hadiz, 1998)。

当時、パンチャシラ労使関係の確立を含む安定した政治を確立するために、新秩序の権力者は軍隊を介入させた。これは「インドネシア国軍二重機能」主義によって可能となっていた。

1986年、スドモ労働大臣は労働大臣決定第342号を発令し、労使紛争の解決に治安部隊(軍事地区司令部と地域軍管区)が関与することを義務付けた。

さらに、ストライキにおける直接的行為の脅威に対処する際、労働省の職員は地方政府、警察、および軍事地区司令部と調整する必要があった(Rudiono, 1992: 80)。

1990年代、劣悪な労働条件と低賃金政策により労働者のストライキが増加し始めると、国家安定強化支援調整庁は1990年12月の決定書「国家安定第02号」を通じて、軍に対して労働者の動揺を探知、防止、鎮圧する権限を与えた。

そのような状況が、ポロン郡軍事区域司令部やシドアルジョ郡地方軍司令部が、マルシナと仲間たちによって行われたストライキに介入するきっかけとなった。

1993年5月5日、ストライキ3日目に13人の労働者が逮捕され、シドアルジョ郡地方軍司令部へ連行された。

その日、マルシナは仲間たちの状況を確認するためにシドアルジョの軍司令部を訪れている。しかしその後、マルシナの行方は分からなくなった。

そして、1993年5月8日、東ジャワ州・ンガンジュク県ウィランガンのチーク林で、マルシナの遺体が発見された。彼女は死亡する前に、極めて激しい暴行と拷問を受けていた。さらに、殺害される前に性的暴行もされていた。

ここから明らかなように、マルシナは新秩おる序政権の労働政治システムの犠牲者であり、その最高責任者はスハルトであった。

国民の記憶

もちろん、私たちはポール・リクール (2000)が「過剰な記憶」と呼んだ、過去にばかり囚われ、未来を見据えるための出口を探ろうとしない状態の中で生き続けるわけにはいかない。

しかし、国家の記憶のもとに、「歴史の傷」や「痛恨の記憶」が開いたまま治されない状態であることを無視してはならない。

リクールは2つの手法を示している。1つ目は、学術的に論証できる事実に基づいた、過去の亡霊を葬る手段としての正しい歴史的言説である。
正しい歴史認識によって、将来我々が同じ過ちを繰り返さずに済むのだ。

2つ目は、責任逃れの壁を打破し加害者が過ちを認めることで平等を回復することだ。この2つなしでは、国家的和解は“見せかけの政治”で脆弱な政治プロジェクトである。

しかし、マルシナをスハルトと同列に並べるという決定は、問題のある歴史的言説の中で国民の記憶を形成し、責任逃れを増幅させ、未だ癒えない歴史の傷を広げることにつながってしまう。

マルシナが労働の政治、そして新秩序時代の国軍二重機能の原理における犠牲者であったという正しい歴史的言説がなければ、われわれ国民は過去から何も学びえないのだ。


また、スペイン人作家ジョージ・サンタヤナ氏が述べたように、「過去を記憶していない者は、同じことを繰り返すように呪いがかけられている。」

さらに、インドネシアの多くの重大な人権侵害事件の責任者であるスハルトを英雄として持ち上げることは、免責の壁を厚くし、ますます歴史の傷を大きく広げるだけだ。

32年前に起こったマルシナ殺人事件は現在もなお真相が明らかになっていない。当時、9人が逮捕され、その多くがチプタ・ピランティ・スジャトラ有限会社の幹部と警備員であった。

最高裁判所は上告審で、マルシナ氏を殺害した証拠が無いという理由から容疑者に無罪の判決を下した。容疑者らの証言によると、彼らはマルシナ氏の殺害者であると自白するために地元軍の拷問を受けたと訴えている。

一方、事件の経緯から法医学的発見に至るまで、この事件には軍隊の大きな役割が存在した。

専門家証人アブドゥル・ ムンイム・イドゥリス氏は、マルシナ氏の死因は鈍器に突かれたことではなく、陰部に発砲され周囲の骨を粉砕した銃器によるものだったという調査結果を著書『インドネシアのX-ファイル(2013)』に記した。

リクール氏が注意を促しているように、集合的記憶とは、過去の出来事の断片をただ思い出すことではなく、過去の不正が公正に清算されることを求め続ける記憶である。

「人は誰もが、たとえすでにこの世を去っていても、正義を受ける権利がある」と、同氏は言う。

もちろん、スハルトを英雄として担ぎ上げる決定は、マルシナへの正義感を傷つけるだけでなく、1965年から1998年5月事件に至るまで、新秩序期の人権侵害の犠牲となった人々が負ってきた「痛恨の記憶」の傷を、さらに大きく開かせるものでもある。

国家として、それは私たちに、中央集権的な(ジャワに偏った)開発政策、上から押し付けられた開発名目で庶民を踏みにじった政治、縁故資本主義、当然のように横行したKKN(汚職・癒着・賄賂)、上司の機嫌取り(ABS)文化、そして結社や言論の自由の抑圧——といった暗い記憶をいっそう濃く思い起こさせるだけである。

結局のところ、国家の記憶は私たちを前へと進ませるのではなく、過去の争いの中に閉じ込めてしまう。
なぜなら、過去には未払いの「請求書」、すなわち真実の解明と正義の確立という課題が、いまだ清算されずに残っているからである。

(ルディ・ハルトノ寄稿)


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翻訳者:近帆乃香
記事ID:7228