歩み続けるエクマットラ
2016年04月09日付 Prothom Alo 紙

エクマットラと名付けられたグループがある若者の一団と手を携えて歩みを始めた。今やそれは、思いもかけなかったような学びの場となっている。路上に放って置かれ育った子どもが深い思いやりにつつまれて「アノンド・シシュ・ニケトン(楽しい子どもの家)」で庇護を受けている。エクマットラの最近の活動を見に行ったA.S.M.リヤド記者が報告する。
ミルプル地区ルプナゴルのイースタン・ハウジング39番地の家。この家では40人の子どもたちが共同で寝泊まりしている。子どもたちはスポーツをしたり、絵を描いたり、紙の船を作って投げたり、歌を歌っている子もいる。渡辺大樹(ひろき)さんは「ここには80羽の蝶がいて、羽根を開くときを待っているんです。」と語る。しかし、この39番地の家に長く暮らすシュモンは、おとぎ話のようにではなく、パイロットになっていつか本当の空を飛ぶことを夢見ている。夢の実現のため、カレッジに入学時には理系を選択した。シュモンと同じくミルプルユニバーシティカレッジで学ぶシャキブはジャーナリズムを勉強することだ。だから毎日、新聞を読むこと、テレビでニュースを見ることを日課にしているという。この家をシェルターホーム(避難施設)という人も多いが、ここで暮らす子どもたちにとってはとうてい受け入れがたい呼び方だ。「ぼくらが住んでいるのはアノンド・シシュ・ニケトン(楽しい子どもの家)だよ」という。
しかし、シュモンやシャキブの人生の道のりはこのようではなかったかも知れない。「もし大樹さんとぼくの母が会うことがなかったら、もしシュボさんたちの青空教室に行ってなかったら、きっとこのようなチャンスはなかったと思う」とシュモンは言う。シャキブとシュモンがエクマットラのこの家に住みはじめて約10年になる。
旅の始まり
ダカ大学の何人かの学生が集まってそれは始まった。シュバシシュ・ラエ、ナズムル・フダ、ニロエ・ロンジョン・ビッシャシュ、シュログナ・レマ、アージュリン・カマルなど、熱心な若者たちだった。大学のキャンパス内で、他の学生たちのようにひとつのサークルを作った。しかし、そのサークルは他のものとは全く違っていた。ここに集まった若者たちはみな、社会の恵まれない人たちのために何かをしたいと思っていたのだ。とくに子どもたちのことが気にかかっていた。この気がかりが具体的な計画に辿り着くのにあまり時間はかからなかった。
ナズムル・フダは「みんなの同じ想いから私たちの旅は始まった。路上で暮らし、危険に囲まれた子どもたちのために、もっと良い未来を用意してやることは可能なんだと。そしてその想いを運動に変えるために作ったのがエクマットラだったんです」と語る。それからほぼ10年、エクマットラは取り残された子どもたちが前に進むための舞台を作り続けてきた。
その後この活動にアブドゥス・サラム、アスファクル・アシェキンら、多くの名前が加わった。
大樹の参加
日本人の渡辺大樹さんは、2002年ごろダッカ大学のIML(現代言語研究所)の4年間のベンガル語コースに入学した。当時 同大学の国際関係学部の学生だったシュバシシュさん、ニロエさんたちもIMLで日本語を勉強していた。渡辺さんはこうして言葉を学びに来て、シュバシシュさんたちと友達になった。
タイにいた時に、非人道的な児童労働の光景を目にし、大樹さんも途上国のどれかひとつで、子どもたちのために何かをしようと決心した。大学のキャンパスで、いつもストリートチルドレンたちの悲し気な表情を見て、シュバシシュさんやニロエ・ロンジョンさんたちも大樹さんと同じ道を歩もうとしていた。このようにして、異なる世界の、異なる住民である渡辺大樹さんがシュバシシュさんたちのプロジェクトと関わるようになった。このように思い出を語るシュバシシュさんの横には、友人の大樹さんが座っている。大樹さんは14年もの年月、エクマットラと共にいる。流暢なベンガル語も身につけた。
「本当のことを言うと、バングラデシュに来る前までこの国について何も知らなかったんです。知っていたのはとても貧しい国だということだけでした。しかし、来てからの1ヶ月で、イメージが変わりました」と大樹さんは言う。「この国は、伝統的な文化と歴史を持っていることが分かったんです。なので、今は自分を1人のバングラデシュ人として認識し、またバングラデシュ人と一緒に働くことに誇りを持っています」。もともとこの国の人たちと接し、子どもたちの心の鼓動を理解するためにベンガル語を学んだとも大樹さんは語った。その後、妻の渡辺麻恵さんも一緒に活動に加わった。この日本人カップルのことは、プロトム・アロ紙の4年前の記事(2012年6月9日)にも載った。
発起人のシュバシシュ・ラエさんは、「子ども時代というのは、はしゃぎまわったり、昼間にいかだで遊んだり、凧の糸巻きを持って思うままに走ったりすることですが、路上でそんな時代を失ってしまっている子どもたちのことを、私たちは考えなければなりません。そのために、エクマットラは『とぎれとぎれの支援』から抜け出して、長期的な解決策を目標に活動しているんです」と語った。
青空教室
ミルプルのエクマットラのオフィスで長い時間待ったが、大樹さんとはとうとう会うことができなかった。メヘディという名の1人のメンバーが、学校に行けば会えるよと教えてくれた。私たちは学校を捜しに出かけた。ミルプルの市場のそばの青空教室で、子どもたちと一緒に夢中になってバスケットボールをしている大樹さんを見つけた。スポーツの後は道徳の授業が始まった。それから歌の練習。学校で毎年行われている文化祭が数日後にせまっている。だからそのための準備に熱が入っている。ディプとメヘディ、ふたりの教師が大樹さんに協力して授業は進められる。しかし、最初に歌われるのはバングラデシュの国歌だ。先生たちの指導は歌い方だけにはとどまらない。歌の各フレーズの意味も教えていく。
生徒のひとり、モミンに話を聞いた。「こうして遊んだり勉強したりするのは結構楽しいよ。ここにいる子どもたちはみな、この市場で何らかの仕事をしている。しかし夕方になると学校にやって来る。始めの頃は雇い主たちは子どもたちがここに来ることを許さなかった。しかし大樹さんはそうした人たちみなと話をして説得した。現在エクマットラはこのような青空教室を三つ開いている。首都ダカの中でも子どもたちが危険な仕事に従事している場所で学校が開かれる。この楽しい教室で初等教育を受けたあと、子どもたちの多くは普通の学校に通う。そこでの勉強を続けられるよう、エクマットラが責任を持つ。
アノンド・シシュ・ニケトン(楽しい子どもの家)
ミルプル1番地に寄る辺のない6人のストリートチルドレンを集めて、アノンド・シシュ・ニケトンは始まった。2006年にはそこから現在のイースタン・ハウジング地区に引っ越した。ここには様々な年齢の40人の子どもたちが暮らしている。建物に入ってすぐ目につくのがロビンドロナト・タゴールの肖像だ。子どもたちのひとりに尋ねてみると、「この人はノーベル賞を取ったベンガル人で、僕たちの国歌を作った人なんだよ」という答えが返ってきた。
そう答えてくれた男の子は、エクマットラ一家の新しいメンバーのリポンだった。歳はまだ10に満たない。リポンと話をした。悪夢のような思い出を語ってくれた。リポンの父親は大工の仕事をしていた。両親は離別し、父親は再婚して義理の母親を家に連れてきた。父親はいつも酔っぱらってリポンを殴った。そんな生活に耐えきれず、リポンはある日列車に乗り、ダカにやってきた。列車が到着したコムラプル駅で暮らし始めた。お金をめぐんでもらったり、人から食べ物をもらって食べたりしていた。時には仕方なく盗みをしたこともある。つかまって殴られたこともあった。そんなある日、エクマットラのミフタと出会い、友達になった。それからエクマットラのレスキュー隊が来て、リポンをアノンド・シシュ・ニケトンに連れてきた。
この家で暮らすラジブ、ティプ、ディプ、ノヨン、ナスリン、ロビン、ウジョルなど他の子どもたちの人生にも、リポンと同じような物語がある。
学校が子どもたちの家を訪れる
エクマットラは2月から移動学校プログラムを始めた。このために「私の学校」という名前がついた特別な車が用意された。この車は教育設備を乗せ子どもたちのところを回る。ビッショ・シャヒット・ケンドロ(世界文学センター)の行なっている移動図書館を見本としたものだ。車には子どもたちの好きなおもちゃや教材が積まれる。この学校で子どもたちは文字を学ぶ。
エクマットラは学園になった
最近モエモンシンホ県のハルアガトに子供の楽園が建設された。エクマットラ・ダッチバングラ銀行アカデミーという名のこの施設は、子どもたちのひとつの世界となる。危険な目にあってきた128人の子どもたちが入所し、この学園の一部の事業が3月から始まっている。シュバシシュさんは「この学園は、危機にさらされ、住む場所がなく、危険な仕事についていた子どもたちがちゃんと成長できるような設備を備えている。ダカでは十分な施設を備えた学園を建設するような大きな土地を入手するのは困難です」と語った。
渡辺大樹氏について
小林加奈
渡辺大樹氏はダカ大学在学中からストリートチルドレンをさまざまな方法で援助してきた。ダカ大学卒業後、バングラデシュ人の友人らと共にエクマットラスクールを始めた。大樹さんはバングラデシュで長く住んでいる。いつもストリートチルドレンたちの未来を良いものにしようと努力している。私は昨年友人たちと共に大樹さんの教室を見学に行った。そこにはたくさんの子どもたちがいた。彼らはわたしを見るとすぐ「こんにちは」と日本語であいさつをしてきた。私たちははじめにこの教室の年少の子どもたちと一緒に紙を使っていろいろなものを作った。日本の折り紙である。どのように折るのかを子どもたちに教えた。子どもたちは一生懸命学んだ。出来上がると子どもたちは満足気であった。教室の男の子の大部分はクリケットの選手になりたいと思っている。女の子たちの夢は「歌手」や「ヒロイン」などいろいろだ。大樹さんの奥さんである渡辺麻恵さんもこの教室で働き、いろいろな手伝いをしている。渡辺大樹氏とその友人たちのやっていることを見て私は励まされる思いだった。私も大樹さんたちのような素敵な仕事をしたいと思った。
(筆者はダカ大学留学中の日本人学生)
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翻訳者:成澤柚乃、齋藤史織、鈴木タリタ、藤原奈津子、仮屋歩、山田純恵、吉川みのり
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