Ismet Berkan コラム:ラマザン明けておめでとうは「ミュバーレク」か「クトゥル」か?(Radikal紙)
2005年11月03日付 Radikal 紙

 私の両親はともに敬虔と呼べるような人ではなかった。アッラーを信じていたし、尋ねられれば「もちろんムスリムです」と答えていた。しかし彼らが礼拝する姿を見たことはない。家族の中で他に大人といえば、母方の祖母と私が小学校を卒業する年に亡くなった祖父がいた。祖父についてはあまり記憶がないのだが、それでも信仰が厚かったというような記憶はない。祖母は毎日5回の礼拝を欠かさなかったが、これについても祖父が亡くなった後で信仰心が強くなったようである。私自身宗教は信じていないが、この文化の中で育ったため、望む望まないにかかわらずムスリムということになるだろう。なぜこのような個人的な話を冒頭に持ち出したのか。理由は以下の通りである。
 
 今日は祝祭である。私が習った限りではこの祝祭は「シェケル・バイラム(砂糖祭)」という名であった。しかし今日では多くの人が、この祝祭に別の名前を用いる。「ラマザン・バイラム(断食祭)」である。祝祭にこの「断食祭」を用いる人々は、たいてい自分のことを他人より敬虔であると考えている。敬虔であると考えているだけでなく、あえて選択したこの名称を用いることによって、祝祭を「砂糖祭」と呼ぶ人たちを信仰心がないと暗示しているように、個人的には感じられるのである。(私が考え過ぎなのだろうか。)
 
 宗教が政治の一部であること、また私たちをまとめるのではなく分裂させることになった結果の一つがこれである。ある者は「砂糖祭」と呼び、ある者は「断食祭」と呼ぶ。宗教が人々を分裂させている例はこれだけではない。今朝「ミュバーレク・オルスン(祝祭おめでとうの意。mübarekはアラビア語起源の語)」という声を聞くであろう。しかしある人は「クトゥル オルスン(同じく祝祭おめでとうの意。kutluはトルコ語起源の語)」、あるいは「よい祝祭を」と言う。しかし私はこのクトゥル・オルスン(kutlu olsun)には全く馴染めない。国民の祝祭ではないのに、クトゥル・オルスンなのか?このクトゥ(kut)という単語は、宗教に関係ある単語だが、イスラーム文化にどの程度関係あるかは疑わしい。(私の知るところでは、kutとはトルコ民族の古代宗教シャーマニズムに遡る単語である。)私はこの数年は「よい祝祭を」と言うようにしているが、これにも正直馴染めない。私は「ミュバーレク・オルスン」と言うのがためらわれる人たちに向かって「よい祝祭を」を使う。これが一番気を使う問題である。なぜ私は人に「ミュバーレク・オルスン」というのをためらうのだろうか。(私の周りはその類いの人ばかりである)誤解されることを恐れているのだろうか。狂信的と思われるのを避けるためだろうか。「信心深い」ではなく「狂信的」である。

 家族を見ても、祖母を除けば敬虔な人などいなかったし、祖母も決して「狂信」ではなかった。祖母は私に祝祭のあいさつは「ミュバーレク・オルスン」というものだと教えてくれた。おそらく他の家庭でも同じようなものであっただろう。祝祭が「ミュバーレク」なのか「クトゥル」なのか、あるいはその名称が「砂糖祭」なのか「断食祭」なのか、私たちを分裂させる問題である。宗教はたとえ信じていなくとも、共通の文化として私たちをまとめるはずが、それをさらに悪用すべきであろうか。宗教が政治論争の一つとなっていることの重大な結末は、敬虔な人までが狂信とみなされるようになったことである。私の少年、青年時代、宗教は少なくとも日常生活の一つであった。しかし今日では残念ながらそうではない。私の職場を見てもわかる。多くの人たちがラマザン中に断食をしている人たちに驚く。しかし私はそういう人たちに驚く。信仰を持つ人が狂信というわけではないのだ。しかし無駄であろう。一部の人たちは自分の生きる社会に疎外感を感じるようになる。また一部の者は、この疎外感を助長し、なすべきこともしない。
 覚えている人もいるだろうが、昨年の砂糖祭の時もこのコラムを載せた。しかし今年もまた載せたくなったのである。


********************本記事への解説********************
 1923年の建国以来、積極な現代化政策が取られたトルコでは、その一環としてトルコ語の「純化」事業が行われた。これはアラビア語やペルシア語起源の単語をトルコ語の新単語に置き換えていくというものである。このため年配の世代がアラビア語の単語を使っているのに対し、若い世代には新しいトルコ語の造語が定着しているという世代間のギャップがしばしば見受けられる。また世俗派、西欧志向の人たちがトルコ語の造語や英語、フランス語の外来語を用いるのに対し、イスラーム派はあえてアラビア語起源の言葉を用いるといった、単語に思想、政治的立場が反映されることがある。
 「祝う、めでたいこと」を意味する言葉はトルコ語では「クトゥル(kutlu)」が定着しているが、アラビア語起源の「ミュバーレク(mübarek)」も用いられる。(アラビア語ではムバーラク。エジプトのムバーラク大統領の名もこの「祝う、豊穣な」という意味である。)またラマザン明けの祝祭をトルコでは砂糖祭(お菓子が振る舞われることから)と呼ぶが、断食祭と呼ぶこともある。筆者は、以前は政治的立場を意識することなく言葉を用いてきたのに、使う単語でその人の思想、政治的立場を決めつける近年の風潮を批判しているのである。
 なお世俗主義を掲げるトルコでも、イスラームの行事であるラマザン開けの祝祭は国民の祝日となり、ごちそうを食べたり親族を訪問したりして過ごす。一方都市部では断食をしない人々も多く、近年は大型連休となるこの期間の海外旅行ツアーも盛んである。ラマザン中に断食をしない世俗派と、断食を強要するイスラーム派の間で衝突が起こることもあり、トルコ社会の二極化、亀裂を象徴している。(文責:大島 史)

 



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( 翻訳者:大島 史 )
( 記事ID:1226 )