İsmet Berkan コラム:クルド問題 力によらない解決策(Radikal紙)
2005年12月07日付 Radikal 紙

ある上層の防衛関係者は「これまで38回クルド人による反乱が起きた。39回目が起きないという保証はない」と言う。この防衛関係者は何年もそう言ってきた。そして付け加える。「反乱を我々は力で抑えつけている。しかしその後時間が経つとまた反乱が起きる。この繰り返しだ。」

トルコ政府は90年代の後半にこの防衛関係者の見解を少なくともこの部分においては受け入れたように思われる。クルド問題は完全に軍にまかされたのだ。その間政府が行った唯一のことは時々軍からテロとの闘いについて情報をもらうことだった。軍は単独でテロと闘うことになり、自らの任務ではないことにまで口を出さなければならなくなった。それは地域振興プロジェクトの計画から、大学入試を受けるクルド人の若者のために「だれそれ予備校」を開くことまで多岐にわたった。

そして特に90年代後半にはクルド問題について「政府の方策」と言えばそれは軍の見解を意味することになった。軍はすでにそのころから「我々はテロとではなくテロリストと闘っているのだ。テロとの闘いは全体的なものであり、それはテロリストが養成される根源を絶つために行われるものだ。」と言っていた。つまり、軍も力以外の解決策を模索していたのだ。例えば多くの人から見てテロの温床を作っている要因は地域の経済的後進性であると思われた。地域への投資が促進され失業が改善されればテロの温床はなくなるはずだった。他の者は経済的・社会的後進性とともに、クルド語やクルドのアイデンティティー、文化への否定的・禁圧的政策もテロの起きる状況を作り出していると主張していた。

上記の2つの説のうち1つ目を牽引したのは軍だった。つまり一時期「政府の見解」はそれとなった。その後時が経ち、政権が変わり、その間オジャランが逮捕されるとテロは止んだ。そして2つ目の説を支持していた者たちに軍配が上がった。今日では政府の政策は2つ目の説に近い。しかしまだ混乱はある。実際、いまだに一つの「クルド政策」はないのだ。なぜなら混乱を生んでいる基本的要素はトルコではなくイラクでの事態にあるからだ。

イラクでの展開に関する堅実な政策が作れなければ国内でクルド問題への一貫性ある政策を作ることはできない。昨日ムラト・イェトキンのコラムにもあったが北イラクのクルディスタンでは1人あたり4,000ドルの収入が見込まれている。実は1979年のイラクでは1人あたりおよそ15,000ドル前後だったのだ。しかし今のイラクは非常に貧しい。それに比べると北イラクは豊かで安定している。

トルコの南東アナトリアにとって、もはや北イラクのアルビルやスレイマニイェはイスタンブルやディヤルバクルと同じ程度の集中都市だ。そもそもトルコで大学入試に落ちた者はいそいそとクルディスタンの大学に入っているのだ。トルコがこのような事態に目をつぶっていること、また「彼らは部族の長だったのだ」というようないまだに民族的で懐古主義的な見方にとらわれて現在から乖離していることは、ひどい結果をもたらすように思われる。

ムラト・イェトキンのコラムにはクルディスタンに関連する政策の転換の方向が書かれていた。しかしまだ我々は新しい「政府の方策」を作れたとはとても確信できない。なぜなら古い見方を続けようとする強力な動きがあるのを見ているからだ。その強力な動きとは地下の政党のようだ。いろいろな場所にいろいろな支持者がいる。私からすると、新しいイラク政策に反対する者と、クルド問題が解決されないこと、または再び武力によってのみ解決されることを求めるよう画策する者が同じ目的のために手を組んでいる。果たしてシェムディンリでの爆弾事件とアンカラでの変化の動きの間には何か関係があるのだろうか?


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( 翻訳者:加賀谷 ゆみ )
( 記事ID:1460 )