Mehmet Y. Yilmazコラム「ターコイズ色のスカーフの少女がのぞむこととは?」(Milliyet紙)
2005年07月28日付 Milliyet 紙

昨夜ミッリイェト紙のサイトの最新ニュースを見ている時、興味深い写真を目にした。
コンヤで行われた第11回目アルトゥンバシャック文化芸術フェスティバルでアリシャンのコンサートの際に写されたものだ。
写真では、頭にピンク色のスカーフを巻いた若い娘が、頭にスカーフのない他の娘と一緒にベリーダンスを踊っているのだ。スカーフの娘はヘソの出た長袖のブラウスとヒップハングのジーンズを着ている。

■生きた否定のよう

若い娘の頭にスカーフが無ければ、その写真と同じ光景をイスタンブルのクラブのどこかで、たとえば「バルコン15」のような店で撮ることができただろう。
同じ音楽、同じ動き、スカーフ以外はまったく同じ服装。
首相エルドアンの「我々がヘソ出しファッションをしている者に文句を言っているだろうか?」という言葉に対しての生きている否定のようだ。
あの写真を見る時、この間興味を惹かれたある他の写真を思い出した。
写真はドイツの「シュテールン」誌で、ドイツのムスリムたちについてのルポルタージュのなかで掲載されていた。
写真には上から下まで薄ピンクの服を着た若い娘がいた。スカーフも、チュニックも、ズボンも真ピンクの娘だ。あの年頃のどの娘でもつけているようなアクセサリーもしっかりつけている。

■どこでも同じ光景

イスタンブルの道を車に乗ったり歩いたりしていると、このような「光景」によく出くわす。
先日は、タクスィムでも同じような娘を見た。ターコイズ色の柄物のスカーフを被り、とても細いデザインのせいで身体のラインをみせてしまっているターコイズ色のチュニックと、同じ色のズボンを履いていた。
「イスラム風スカーフ」の服装にこういう流行でも始まったのか、分からない。しかし、道で見たスカーフを被った娘達の多くの服装は目立つ色である。ヒヨコの黄色、お菓子のようなピンク、トルコ石色、水色・・・
こういったことに、きっと意味があるだろうと私は考えている。

■これは新しい総合論だろうか?

きっと、スカーフを巻いた若い娘達も「違って見られること」「気に入られること」「自分の自由な存在を表現すること」を望んでいるのだ。
スカーフをかぶっているとしても、その点では(かぶっていない娘と)なにも違わ ない。
スカーフを巻かない同性が外に出る時にお洒落をしているように、彼女達も「よく見られる」ために努力をしているのだ。
しかしイスラム風スカーフをする意味は、これの完璧に反対であるはずだ。男たちもいる場所で「女性達は男性の目をひかないように。彼らに罪を犯させないように」といってイスラム風スカーフをするではないのか?
それとも、これも新しいトルコ・イスラーム総合論なのだろうかヴェールはただ「頭と首を覆うこと」として理解する新しい解釈だろうか?
きっと「周りの圧力」のせいでスカーフをせざるをえない若い娘達は、あの限られた場所の中で自分たちのために「自由の空間」を創ったのだろう。
きっと宗教の教義的で保守的な解釈に対して、彼女たちが新たに生み出した新しい解釈なのだ、これは。
先ほども言ったように、理由は分からない。
もしかしたら公正発展党の施政者たちの一部が「我々の妻はトゥルバン(イスラム風スカーフ)を巻いていない。頭覆い(スカーフ)をしているのだ」と言った理由もこれだろうか?我が国の社会学者と心理学者に聞けば、この件できっとなにか教えてくれるだろう。 彼かが何か書いてくれて、私たちが自分たちのおかれている状況をよりよく理解でき るようになることを望みたい。


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( 翻訳者:池田 慈 )
( 記事ID:549 )