Yıldırım Türkerコラム:ヒロシマとナガサキ(Radikal紙)
2005年08月08日付 Radikal 紙

 ワシントン・タイムズは明かしてしまった。ジョージ・ブッシュが2002年9月14日に署名した「国家安全保障戦略」では、アメリカやその同盟国に対する科学・生物兵器による攻撃がありうる場合、核兵器で報復する可能性があることが示唆されていた。しかし新聞はその「戦略」を一般市民に公開する際、報道規制がしかれていたことを明かしたのである。
 秘密にされた文書にみられた「核による報復」の承認は、市民が飲み込むにふさわしいと認識されず、削除されたのである。敵が科学・生物大量破壊兵器を使用する場合「アメリカはこれに対し、核兵器も含む強力な武器で報復する権利を持つ」との表現は、市民の前に出すに当たって少々整えられ、「アメリカはこれに対し潜在的なものも含めて全兵力でもって報復する」という表現になって世に出されたわけだ。
 よく知られていることだが、アメリカはその核政策を、注意深く選んだ不明確さのうえに作り上げてきた。持っている切り札をあきらめたくないがために何年も核兵器の使用に関して確定的な発言を避けてきた。「あらゆる可能性に対してオープンである」「どんなことでもありうる」といった言葉を弄していたのである。しかしブッシュとともに硬化するワシントンは、この戦略ではまず核兵器使用の理由となる事柄を並べ立てている。核兵器使用の可能性は露骨に記録されていたのであった。
 あれから60年が過ぎた。科学者たちが何年もかけて取り組んできたパズルのかけらはようやくひとつにまとめられた。3日後ナガサキに投下された原子爆弾の類似物はそれよりも前に試されていた。しかし1945年8月6日にヒロシマに投下された爆弾は、比類なきたった一つのものである。科学者たちは、8月9日にナガサキで起こったことはおおよそ予測できていた。しかしヒロシマでその日、そしてその後で何が起こったかということについては、残存放射能の測定からその規模を推測することしかできなかった。当時の日本の都市地図さえないため、アメリカ軍の記録が情報源として使われた。爆弾が正確にはどこで、どのように爆発し、無事だった人々は町のどこにいて、どれだけの放射能にさらされたのか計算できなかった。しかし日本とアメリカの科学者たちは、新しく発見された尺度の大きい地図や複雑なコンピュータプログラム、発達した放射能計測器といった技術を用いて、その日起こったことの真実に接近するべく状況を再現することができたのである。
 野蛮なアメリカのしゃれ心から「リトルボーイ」と名づけられた爆弾はその日ヒロシマで14万人の人々を虐殺した。さらにその後で、28万人の人々が被爆した。これらの人々のうち、86500人が日米放射能会議の調査対象となった。この犠牲者たちの半分は放射能が原因である病気の結果、死亡した。生き残った人々がどれだけ被爆したのか、計測するのは容易ではなかった。なぜならば、多くの人々があの日爆弾が爆発したときに、町のどこにいたのか正確には思い出せなかったからである。「リトルボーイ」が生み出した、がんの原因となる高速中性子の量は新しい化学分析技術によって明らかになった。高速中性子の攻撃に遭ったヒロシマの人々の一部は、幸運なことに町の南東部に位置する比治山によって部分的に放射能から守られていたことがわかった。高速中性子の致命的な力は、変質、すなわち何かの金属が別の種類の金属に変わる原因となった。衝突した銅が変化してできたニッケルが調査の対象となった。

■科学のギャンブル
 もちろん、調査は歴史のディテールをすべて記録することを目的に行われているわけではない。ヒロシマとナガサキは放射能研究において他にはありえない唯一の事例なのである。がんについての研究では、ヒロシマやナガサキを事例にとった研究は、医学における放射能利用に対し力強い助力となることを目的としたものとなっている。生き残った原爆の犠牲者たちが人類に奉仕しているのである。文明の恐ろしいアイロニーである。
 1945年8月6日、ヒロシマはよく晴れていたと記録されている。真っ青な空、かなり低空飛行で3機の飛行機が見えるや、サイレンの音が鳴り人々は防空壕に逃げこんだ。しかし彼らは大してパニックに陥っているようには見えなかったという。
 3機の飛行機ではたいした被害を与えられるものではない。8時15分、エノラ・ゲイの爆弾倉のふたが開き、40秒後町のちょうど600メートル上空で爆弾が爆発した。爆弾の破壊力が最も強くなるであろう高度はこのように捉えられた。すなわち、地面にもっと近い場所で爆発したならば、影響力の大部分は無駄になり、ただ地面に大きなクレーターが開くことになる。爆弾に含まれるウランは、鐘形の外形の内部で「破壊の聖三位一体」、熱・光・音に変化する。町にいる人々は、太陽よりも強い光で焼かれる。視界を完全に遮断するこの光と恐ろしい熱は、火が燃え広がりやすいからと平らであるために選ばれたこの町の大部分に火事を起こした。その後空に広がったのは、原爆の商標となったあの恐ろしいキノコ雲。町の消防団はとても足りない。結局この爆弾は全てを消滅させ、町中は真っ平らになってしまった。日本の首脳は、届いたニュースは誇張されたものだと思い込んだ。調査のために飛行機を送った。しかし何百メートルも手前から町のあった場所にキノコ雲が広がったのを見た人々が、そこで何があったのかを理解することは不可能だ。大規模な空襲はなく、しかもヒロシマには大きな爆薬庫はなかった。日本はその身に起こったことを、16時間後のホワイトハウスの会見の結果知ることになる。トルーマン大統領は驚くほどの誇りをもって、ヒロシマに落とされた原爆について詳細を述べるのだった。
「太陽がそこからエネルギーを得ている力は、極東で戦争を起こした者どもの頭上に放たれた」。これは、「宇宙の源の力を掌握した」ということだった。この爆弾は、1945年2月13日の夜、RAF戦闘機でドレスデンに落とされ13万人のドイツ人の死をもたらした10トンもの爆弾よりも2000倍強力だった。「世界平和の名において、より強力な爆弾をつくるための努力が続けられている」。原爆をドイツ人よりも先に発明することは人類を守るための一つの勝利だった。
 しかしトルーマンのその日の会見の中で、もっとも鳥肌の立つ部分は、私に言わせれば次の箇所だ。「歴史上もっとも偉大な科学のギャンブルに我々は2百万ドルを賭け、そしてその賭けに勝ったのだ」。

■日本モデル
 イラクがその運命に直面しないために、すぐに日本も支持したアメリカの戦争礼賛タカ派たちは、イラク戦争が始まるずっと前に「日本モデル」をイラクの唯一の解決策として提示していた。
 「リトルボーイ」とナガサキに落とされた「ファットマン」が合計21万人の死をもたらすと、日本は降伏した。日本の新しい天皇はこの後[訳注:事実上]、ダグラス・マッカーサー将軍となった。マッカーサーは、日本をすぐに非武装化し、準備していた新しい憲法を1947年に施行させた。軍法裁判所をつくり、何百人もの人々を処刑した。GHQに限界はなかった。日本人の信仰にまで干渉した。「アメリカン・ライフスタイル」と呼ばれるゴージャスな発明品を普及させる計画でもって日本のあらゆる抵抗を抑え込んだ。1949年の選挙で票の10%を得て国会に35議席を獲得した日本共産党は、マッカーサーのものすごい圧力の前にくじかれた。1950年には連合軍トップとなったマッカーサーは、中国に対し原爆を使用するよう提言し、トルーマンをも恐れさせて任務からはずされた。
 ヒロシマとナガサキに落とされた爆弾が、歴史上もっとも苦しい瞬間に余儀なくとられた方策であるかのように思わせようとする野蛮な戦争礼賛者に対し、人間の生命の大切さを思い起こさせようと努めることは、生きている全ての人々に課せられた責任である。



Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:宇野 )
( 記事ID:619 )