Ismet Berkanコラム 「トルコ的マゾシズム」(Radikal紙)
2005年05月06日付 Radikal 紙

 我々トルコ人は自分たちのやるべき仕事以外のあらゆるものに興味を持つ。特に「大きな」問題を好む。トルコ人は、かの有名な社会学者マックス・ウェーバーが著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で描いた人間たちの正反対である。アンチテーゼですらある。その訳はトルコ人がプロテスタントではないということとはあまり関係はないだろう。

 我々は楽な人生を選ばない。自分の仕事に集中し、それを工夫し発展させればいいものを、国の「巨大な」問題を解決しようとする。その当然の結果、我々は何事にも満足せず、コップの空の半分の方を見る。なぜなら我々にとって人生には称賛か批判かしかないからだ。さらに言えば、称賛もそんなにはしない。それはおべっか使いのすることだ。つまり実際には、批判するためだけに我々は存在する。

 しかし、これとは違った人生だってあるのだ。世界は称賛と批判だけから成り立っている訳ではない。称賛と批判のジレンマが全くない人生だってある。我々は、自虐的なまでに批判的で、自分たちがあまり成功しなかったからといって成功した者を称賛することも忘れ、遂に自分たちの現実から乖離してしまっていることに気付いていない。トルコ人のトルコを見る目と外国人のトルコを見る目が違うのも主にそういった理由によるのだろう。

 実際には、何千もの外国人実業家や事業家、銀行家、政府関係者が日々トルコでの獲物を狙っている。トルコについて議論している。彼等はただイスタンブルの歴史遺跡や観光名所を見るためにここに来た訳ではない。それらを見て回る時間もない。彼等はトルコで仕事をするために、投資の機会を探すために来たのだ。我々が「まだEU加盟交渉の政府代表者すら決められていない。政府は EUを無視し始めている」と話している間に、外国人はトルコがEUに入ると信じ、投資に来ている。我々が木を見て森を見なくなっている時、彼等は森だけを見ている。道に倒れた木も一時的なものだと知っているのである。我々が自国の経済の発展を盲目的な先入観で評価し、次第に現実的感性を失っていく中、他者が過去の功績を評価し、やるべきことを奨励するかのように知らせてくれる。

 残念ながら我々は自分たちのやるべきこと以外のあらゆるものに関心を持ってしまう。我々は基本に立ち返り、自分たちのしていること以外のことに興味を持たないようにするべきだ。トルコ的マゾシズムから解放される道はこれかもしれない。



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( 翻訳者:加賀谷ゆみ )
( 記事ID:2 )