Ismet Berkan コラム「公正発展党の失望」(Radikal紙)
2005年05月19日付 Radikal 紙

公正発展党は政権に就くやいなや自らの伝統的なルーツから完全に離れてしまった。トルコにおいて伝統的なイスラム主義的政治とは単にイスラム主義なだけでなく同時に反西洋という性格を持つ。しかし公正発展党ははじめからトルコの将来をより一層西洋に近づけようとしていた。ある説によれば、この政策は当時の状況から判断された実用的な選択ではなかった。トルコの将来を西洋に求めたのはより根の深い政治的分裂の結果だったという。

この説によれば当時トルコにイスラム主義国家を作ることは現実的ではなかった。そのため公正発展党は、民主主義的自由を掲げることから利益を得ていた。しかし西洋式の自由が定着すれば信仰の自由の前に立ちはだかる全ての障害がなくなり、トルコのイスラム教徒を抑圧から解放することができるとも考えた公正発展党は民主主義的自由を守ることに決め、EUの要求した国内改革を次々と実現させた。

一方で公正発展党とその支持者たちにはいくつかの要求があった。まず浮かぶのがスカーフ問題の解決だ。しかし現実にはこの問題は一層こじれて、国会議長がスカーフを被った妻を伴った訪問を行えなかったり、公正発展党議員の妻たちが大統領官邸に行くことができなかったりという状態だった。それでも公正発展党は西洋の信仰の自由を頼りにしていたのでスカーフ問題には取り組んでいなかったが、突然雲行きが怪しくなった。EUも欧州人権委員会も公正発展党のようには考えていなかったのである。公正発展党も気づき始めていたが、フランスを筆頭にいくつかのEU諸国ではスカーフは信仰の自由の問題ではなく、トルコで昔から言われていたように民主主義への脅威として捉えられていた。これは公正発展党にとっては失望だった。

二つ目の失望はキプロス問題だった。公正発展党はここでも伝統的な民族主義(反西洋)勢力と対立するという危険を冒して解決策を主張した。公正発展党の取ったリスクは大きかった。キプロスで国民投票が行われギリシャ側が統一を拒否するとトルコは何の利益も得られなかったということになった。しかし政府、特にエルドアンはリスクを冒したことに対する西洋のリーダーたちからの大きな評価を期待していた。実際には2004年12月のEU加盟交渉でそのような評価は全くないと言わんばかりに、EUはさらなる要求を出してきた。エルドアンは裏切られたと感じていた。後に胸中をミッリイェト紙に「私の中で糸が切れた」と説明している。

スカーフであれキプロスであれ、その後に次々と取りざたされたアルメニア虐殺、オジャランといった問題であれ政府内に深刻な西洋への反発や疑いの念を起こさせた。そしてこのような雰囲気の中、政府は刑法問題で譲歩なしの姿勢を続けている。この法律が将来EUとの間で大きな対立を生むだろうということは予言者でなくても分かる。政府はこの3年間に行った民主主義化のための改革のうちかなりの部分を撤回している。政府は仕方がなければEU加盟は諦める、とでも言うつもりなのだろうか。本当に方向転換しようというのだろうか。



Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:加賀谷ゆみ )
( 記事ID:58 )