Ismet Berkan コラム:80年クーデタの記憶(Radikal紙)
2005年09月13日付 Radikal 紙

(訳者註:トルコでは1980年9月12日に、経済や政治の混乱、左右翼運動の激化を抑えるために軍が国政を接収した。今のトルコはこのクーデタの後に作られた政治制度の延長上にあり、クーデタの起きた「9月12日」は特別な心情をもって語られることが多い。)何とあれから25年が過ぎたのだ。つまり4半世紀だ。あの頃私は高校に通いながら夜間はジュムフリイェト紙のスポーツ報道部で仕事をしていた。あの夜、つまり9月11日から12日へ移る夜には明らかなクーデタの予感が感じられていた。しかし仕事も終わり、新聞も刷られ始めたので我々は送迎バスに乗って職場を離れた。私は最も遠いところに住んでいたためいつも最後にバスを降りていた。私の家へ着いた時には朝の3時半だった。母が窓辺で私が帰るのを待っていた。母は「新聞社に戻らないといけないわ。クーデタが起きたのよ。皆を集めて新聞社にもどりなさい」と言った。

新聞社に戻る道にはたくさんの戦車が出ていて、我々のバスは何度も止められた。社に着いた時には総合報道長の故オクタイ・クルトボケと文章構成部長の故チェティン・オズバイラックがそこにいた。彼らはその日の一面をとっくに作り終えていたのだ。紙面をチェックし軍部にとって望ましくない報道を取り除いているところだった。1980年9月12日のまさに今このコラムを書いている時間に、ジュムフリイェト紙の広いオフィスに置かれた唯一のテレビの音量は最大になっていた。社に戻った者たちはテレビの前に群れ、クーデタの主導者であるケナン・エブレン参謀総長の演説を聞いていた。

コラムニストのイルハン・セルチュクを思い出す。彼はテレビを見るために机の上に乗りそこからじっと事態を追っていた。ケナン・エブレンがクーデタは誰に対して行われたのかを説明する際、「反動勢力」もその中に含めたのを確認すると、ほっとした顔をしていた。「反動勢力とも言った」と言いながら机を降り、非常事態下での最初のコラムを書きに部屋へ上がっていった。祖国にクーデタが起こったのだ。我々の新聞も含め、全ての人の未来は不透明なものとなった。

朝になっても世界は止まったかのようだった。それでもなんとか会社に各紙が届いた。ヘルギュン紙、デモクラット紙、アイドゥンルック紙、ポリティカ紙はこの日も発行された。しかしクーデタの主導者たちはこれらの新聞を差し止めると決定していた。これらの新聞の9月12日号は誰の手にも届くはずのないものであったが、なぜかその日皆が手にしていた。あの日の新聞を取っておかなかったことは大きな後悔の一つだ。

昼になると皆がスポーツ記者部の端にあるテレックス室に集まった。ジュムフリイェト紙のアンカラ派遣員ハサン・ジェマルはクーデタの初日の様子を、ニュースや噂も含めテレックスでイスタンブルの我々に伝えてきた。このテレックスは後にハサン・ジェマルの著書「戦車の音での目覚め」の冒頭になるのだが、こういった情報は報道規制下では非常に貴重な情報だった。後にこういった情報を寄せ集めて書かれた本はかなり売れることとなった。

今日わが国に暮らす人々の半数以上は9月12日のクーデタを体験していない。まだ生まれてなかったか、まだ理解できる年齢ではなかったか。あのクーデタは当時生まれていてもいなくても皆に影響を与えた。何十万という人が拷問を受けた。それもつい最近まで続いていたのである。クーデタによってもたらされた法体制からまだ我々は逃れられていない。例えば大学制度は今も我々を悩ませている。大学は自由な学問の場ではなく教育を与える場に変えられてしまっている。9月12日のクーデタが今でも我々の生活に影響を持っているとしたら、我々は自分たちの至らなさにも目を向ける必要があるだろう。



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( 翻訳者:加賀谷 ゆみ )
( 記事ID:855 )