Ismet Berkan コラム:テュルクビュク村の社会学的考察(Radikal紙)
2005年08月06日付 Radikal 紙

ある親戚が、ボドルムのテュルクビュク村で一日を過ごした。【訳者注:トルコは今、夏の休暇のシーズンを迎えている。ボドルムはエーゲ海に面した、西洋人やトルコ人の若者に人気の観光地のひとつ。】彼はかつて小さな村だったそのテュルクビュク村の海岸を何度か歩き、感想を私に言った。「ここにいる人達には歴史がない。彼らがどこから来たのか誰にも分からない」

我々はいつもメディアの爆撃の下を生きている。メディアはただニュースを伝えるだけにとどまらない。生活スタイルをはじめ、我々は何を欲しがるべきで何を欲しがってはいけないのか、美しさの基準が何であるかなど多くのことをも伝えている。何日間か次々とテレビのトップニュースを見たが、その中でバカにならない割合を占めていたのは休暇関連のニュースだった。これらがどれほどのニュースになるのか、という論争に参加する気はない。このコラムにとって重要なのはボドルム半島の比較的小さな村であるテュルクビュク村がメディアによって、ニュースのヘッドラインで、総合番組で、新聞や雑誌で、「優雅な時間」の流れる場所として紹介されているということだ。「優雅な時間」つまり金持ちの、ソシエテの時間…。テュルクビュク村はその優雅な時間が夏の間、皆の目の前で流れる場所なのだ。

メディアは知ってか知らずかひとつの型を、求められるべきものを作り出す。そしてテュルクビュク村はそれがまさに具現化した例だ。ポケットにいくらかのお金を持った、つまりテュルクビュク村で一日を過ごせるであろうと考える誰もがここへやってくる。なぜなら彼らは金持ちが、他の人達がどのように休暇を過ごしているのかを見てみたいからだ。ここで先述の私の親戚の「ここにいる人達には歴史がない」という言葉に凝縮された考察が重要になってくる。

お互いを真似するために来るのである。彼らのようになるために。彼らのようになるために、彼らのように振る舞いに来るのだ、テュルクビュク村へ。一体誰のようになるためなのか?我々の国の新興の金持ちのようになるためだ。

ただしひとつ重要な違いがある。今日わが国で、ある人達がうらやましがり嫉妬している新興の金持ちは、ひとつの文化の継承者ではないということだ。彼らがテュルクビュク村で送っている生活は父母を見て学んだものではない。なぜなら彼らの父親は高い確率で一生に一度もボドルムで休暇を過ごしたことのない、むしろ休暇という概念が我々と同じではない人達だ。つまり、テュルクビュク村で、新興の金持ちをうらやみ真似しようとする人達もそもそもひとつの文化を見るのではない。歴史のない、昨日作られたばかりの、そしておそらく明日にはなくなるようなものをそこで見るのだ。そしてそれこそが人生だと思ってしまう。

日中は日光浴をする代わりにダンスミュージックで踊り、酒を飲む。皆が、世界中がそのようにしているとさえ思っている。太陽の下でそういった楽しみ方を選び、ただ楽しむだけでなく同時にある世界の一部になったと感じる。しかし実際にはそのような世界などないのだ。彼らはそのことに気づいていない。

この歴史や未来との断絶のために、本来もっとずっとマイナーであるべき休暇の過ごし方が、テュルクビュクでは絶対的な過ごし方になってしまっている。


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( 翻訳者:加賀谷 ゆみ )
( 記事ID:607 )