イブン・アラビー神秘哲学における芸術的想像力  シャルグ紙
2006年07月25日付 Sharq 紙

7/25(火)付シャルグ紙hekmat-e shadan面

芸術学士院哲学部:イブン・アラビー神秘哲学における芸術的想像力*1
ファルナーズ・シャヒード=サーレス

「想像の学問を持たぬ者は皆、真知の薫りをすら嗅ぐ事が出来ない(真知について何一つ知る事が出来ない)」。

 この文章は、ヒジュラ暦6世紀(西暦12世紀)のアンダルス(スペイン)出身の神秘哲学者、イブン・アラビー*2による真知認識に関わる一節である。ナスロッラー・ヘクマト氏は土曜日(7月22日)の芸術学士院の会合にて、イブン・アラビーの神秘哲学における芸術的想像力というテーマで、初めて提起される全く新しい議論を行った。全体として、このイスラーム神秘哲学者の手になる膨大な量の著作は、今に至るまで、主題別に分類されていない。彼の諸著作を詳細に分析したアンリ・コルバンでさえ、想像と想像力[という概念]について独立した章を書いていない。この為に、ヘクマト氏は講演を提起して要約する[という離れ業を]1時間以内で終える事が出来なかったのだろう。

 氏は、聴講者たちがイブン・アラビーの諸思想や、その存在論、人間論、世界論について大体の事は心得ていると仮定して、真知認識[の概念についての説明]から講演を始めた。イブン・アラビーによれば、「真の学問とは、我々と諸事物との間に本質的な関係を確立するような学問である。」つまり、「本質を知る者こそが諸事物を認識する」ところの真実の知識である。我々は諸感覚及び、それらを統括する理性を通じて諸事物との間に関係を確立し、「諸事物を認識し、最終的に神を認識する為には、我々は理性の追従者とならねばならない」のであるが、これに対して、イブン・アラビーは「理性への追従」ではなく、「神への追従」の理論を展開している。「神への追従」とは、簡略化して言えばつまり、「我々は神の御言葉と神の使徒(ムハンマド)の言葉に追従しなければならない」という事である。何故なら、「神は下僕たち(人間)の為に、御自身を言葉の中に顕された。その為、自然への理解や知覚を以って、我々は神に追従する事が出来るのだ*3。」

 問題は少し曖昧である。ヘクマト氏は、これを「世界の諸事物を認識し、最終的に神を認識する為には、我々は諸地平(世界)と自己の観察を行わざるを得ない」と解釈する。この諸地平(世界)と自己の観察を始める事もまた、神と預言者(ムハンマド)への追従である。イブン・アラビーは諸地平(世界)と自己の観察、真知に関わる7つの領域を紹介する。[イブン・アラビーは]7つから成るこれらの領域のうちでは、想像の学問が最重要かつ、最も包摂的なものである[と考え]、また「想像の学問は真知の偉大なる柱であるが、それを有していない者は、真知の薫りすら、その嗅覚器官に届かない」と考えている。

 ところで、イブン・アラビーの言う「想像」とは、美学の一部分、あるいは感覚的、情動的、詩的諸側面として我々が思い浮かべるものよりも広い意味を持っている。ヘクマト氏の言によれば、「それ(イブン・アラビーの言う「想像」)は、これら全てよりも先ず、存在論的次元、認識論的次元を持つ。」イブン・アラビーによれば、「想像」は3つの意味を持つ。1つは、彼が絶対的、あるいは「盲目的」想像とも呼ぶ「世界的想像」である。2つ目は、大宇宙(マクロコスモス)における連結の1つの段階である「分離的想像」であり、最後の1つが、小宇宙(ミクロコスモス)――つまり人間――における連結という段階の意味で用いられている「結合的想像」である。ヘクマト氏は[これらの]想像の分類を列挙した後、それら1つずつについて説明を行う。

 氏は、イブン・アラビーの驚くべき非凡は、彼独自の方法、つまり神への追従[の理論]にあるとみなしている。「イブン・アラビーの極限の尽力は、[神の]御言葉を理解する際に必要となる全てのものを見出し、その深みへと達する事に向けられている。」イブン・アラビーによれば、神の御言葉は2つの意味を内包する。1つ目は、神は諸々の真実を我々が理解することを望んでいるのであり、故に神が仰った事を理解する事に、我々は極限の努力を傾けなければならないということである。もう1つは、神と預言者は我々の世界からの経験に根差した[表現で]我々に対して語り掛けているのであり、故に我々は諸々の真実を理解する為に、世界において我々の周囲で起こる事を用いる事が出来るということである。

 この諸々の真実のうちの1つが創造の問題である。イブン・アラビーの創造に対する視点は芸術的視点である。彼の神秘哲学の根本的柱の1つは、「我(神)は隠されたる宝であった。我は知られる事を欲した。我は知られる為に創造を始めた*4。」というハディースである。彼の解釈によれば、神は無始的永遠*5の孤独の中におり、その為にこの無始の孤独から抜け出す[事を望んだのだ]。[神の]愛や熱望についての議論が提出されるのは、正にこの点においてである。愛は運動を生じさせ、イブン・アラビーは愛する者である人間の諸状態が神へと到達するのだと説明する。ヘクマト氏の推論によれば、「溜息をつかせる苦境こそが神の孤独なのである。」神はこの孤独を打ち消す為に、イブン・アラビーが「慈愛の息吹*6」と呼ぶ、深い息を吐く。イブン・アラビーが「世界は神の芸術である」と宣言するのは、ここにおいてなのである。神は自らの芸術で以って世界に顕れた。神的芸術の中に、神の表層と内面は互いに結び付き、全ての存在界は[神の]表層と内面が合流する領域なのだ。第2段階、「分離的想像」では、分離した世界が顕れる。つまり、[かれを]知覚する者を必要とせず、その為に人間からかけ離れている存在が顕れる。イブン・アラビーによれば、この世界は真実の国であり、理性的には考える事の出来ない全てのものが、この世界には存在する。しかし、人間の存在に属する領域である「結合的想像」は、それ故に、人間の存在と知覚とに依拠している。

 ヘクマト氏は、これらの[3つの]諸世界についての説明を行った後、イブン・アラビーの芸術的想像力[の説明]に従事し、「人間が芸術作品として創造するものは『結合的想像』の世界の所産である」と述べる。イブン・アラビーは想像と想像力との間の違いを認めている。「想像は真実の国である。そこには誤りというものが無く、想像全体が真理である。想像に誤りは無いのだ。」しかし、この想像が人間の中に入ると、そこにひっそりと悪魔が忍び寄る。神が、人間の想像の中に忍び込む許可を悪魔に[与えるのだ]*7。「人間の澄んだ透明な池が、濁ってしまうことに準備が整う。」彼は人間の想像を池に譬える。「人間が意思を持って、そして自身の外に存在する諸要素の影響の下に、想像力に従事する時に、池は泥で濁り、表象概念は透明なまま顕れる事は無い。」イブン・アラビーは、人間の芸術を創造された全てのものという意味で考えている。そして彼は人間を神の似像と見るので、以下のように考える。「人間は神と同じように、あらゆるものを意思し、創造する事が出来る。そして人間が創造するものは全て、彼の芸術である。」人間の芸術的作品の全てもまた、2つの神的特長を備えている。つまり、ものの出現と苦境のあとに続くものである。つまり、人間は自らの芸術の中に出現し、人間の世界における芸術の実現は人間たちの孤独が生み出したものである。「人間は自身の芸術で以って呼吸を行う。」イブン・アラビーは全ての出現を「芸術」と名付ける一方で、彼はそこに1つの段階を認める。

 「人間の真の芸術は、人間を鏡のように実現させる事の出来るような芸術である。」神は御自身の芸術で以って、つまり自身の鏡としての世界と人間の創造で以って、唯一性の次元から多数性の次元へと顕現する*8という説明からも解るように、人間の真の芸術とは、神の芸術の写しであるような芸術なのである。つまり、互いの混ざり合い、騒乱、暴乱であるところの多数性の次元から、神的唯一性の次元へと向かうような[芸術なのである]。彼の言によれば、終末――つまり、イスラームの預言者(ムハンマド)の時代以降――の芸術は、抽象へ向かう傾向がある。「我々は動けば動く程、より抽象へと向かわなければならなくなる。つまり、神の言葉と神学の領域における芸術的手腕へと[向かわなければならなくなるのだ]。」

 ヘクマト氏は講演の最後に、イブン・アラビーのハヤールの持つ諸要素について今まで為された研究の脆弱さを指摘し、イブン・アラビーの諸見解に関する[規定]は、我々の伝統的聖法の中には存在しないという今日の雰囲気考慮しつつ、問題提起を行った。


*1本稿で「想像」「想像力」と訳した語はアラビア語ではそれぞれ、「ハヤール」「タハイヨル」であり、訳し分けの難しい用語であるが、本稿の説明によれば、前者が神に属する完全な次元であり、後者が人間の芸術活動などの不完全な次元である。

*2 1165-1240. 著名なスーフィー思想家。アンダルスのムルシアでアラブの家系に生れ、青年期はアンダルスで法学・ハディース学・神学などを学んだ。病気の際の幻視体験からスーフィズムに入る。彼の存在論においては、すべてを超越した根本原理「存在」(ウジュード)が顕現することで万物が現れるとされる。ウジュードは、イブン・スィーナー以降、「本質」(マーヒーヤ)の偶有・属性であると考えられてきたが、イブン・アラビーはこの説を否定し、ウジュードこそが、すべての根本原理となる何かであると主張した。ここでウジュード(存在)というのは、実存ともいうべきものであり、マウジュード(現象界の存在物・存在者)とははっきり区別される。イブン・アラビーがこの考えを初めて打出した人であることは疑いないが、‘‘存在一性論”という用語も、存在顕現の段階も、彼自身は明確には述べておらず、我々が現在知る存在一性論は、後世の人々が彼の晦渋な思想を論理的に整理したものである(cf. 東長靖「イブン・アラビー」『岩波イスラーム辞典』155-156頁;「存在一性論」588頁)。

*3 存在一性論学派によれば、我々が生き、通常知覚している経験的・感覚的世界は全て神の自己顕現として説明される。神の段階的顕現の端緒においては、神は「神」という名で呼ぶ事も許されない「絶対無文節の存在エネルギー」(井筒俊彦)とでも言うべき(厳密に言えば、そう表象する事も許されない)もの(アハド)として考えられる。その絶対無文節の存在エネルギーが、未だ絶対無文節ではあるが、若干文節化に向かって傾き始めた段階を「アハディーヤ」と呼ぶ。そこから、「ワーヒディーヤ」と呼ばれる段階が現出する。ここにおいては、未だその統一性は保持されながらも、その内部は無数に分節化されている。この文節の1つ1つが「名前」であり、それら無数の名前を統合する名前が「神」(ワーヒド、アッラー)である。そして、絶対無文節の存在エネルギーが、この無数の文節(名前)の網目を通して、限定(タアイユン)されながら顕現する。これが、我々の生きる経験的・感覚的世界(カスラ:直訳すると「多数性の次元」とでも言うべき)である(cf. 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波書店、1980年)。このような存在論においては、世界の全てが神の自己顕現として説明されるのであるから、自然の理解や知覚が神への追従に繋がるというのは、極く自然な事と言えるだろう。

*4 このハディースは、イブン・アラビーのみならず、スーフィーたちが好んで引用するものである。このうち、「我(神)は隠されたる宝であった」の部分は、原文では勿論アラビア語で、‘‘kuntu kanzan makhfiyan”となる。このうち、翻訳文中の「隠されたる」は‘‘makhfī”にあたる(‘‘makhfiyan”は‘‘makhfī”の対格形)。しかし、‘‘makhfī”という形はアラビア語の辞書にも載っているが、通常は、同じ意味で‘‘khafī”という形が用いられるようで、イブン・タイミーヤ(1258-1326、今日のスンナ派サラフィー主義反体制武装闘争派の理論形成に大きな影響を与えている、ハンバル学派イスラーム法学者)はこの事を根拠に、このハディースが後に捏造されたものであると主張する。但し、たとえこのハディースが実際に捏造されたものであったとしても、広くスーフィーたちがこのハディースによって自らの主張を権威付けているという事実には変わりが無く、その意味においてこのハディースの重要性は何一つ損なわれる事は無い、という事は銘記しておかなければならない。

*5永遠には2つの側面があり、一方は「無始の永遠」(azal)、もう一方は「無終の永遠」(abad)である。

*6 スーフィズムにおける宇宙創造論、存在論の主要概念の1つ。ハディースに由来する語。イブン・アラビーとその学派の宇宙論では、うつろいゆき、しかも日々新たなる存在界の実相をアッラーの呼吸により吐き出される息になぞらえる。このアッラーの息とみなされたたまゆらの存在一般が‘‘慈愛の息吹”と呼ばれる。イブン・アラビーの学統が発展させた存在一性論派の形而上学では、慈愛の息吹とは存在一般をさすとする。存在一般は知的形相により、複数化するとみなされる。それは人間の吐く息はたんなる空気であるにもかかわらず、言葉という形相により多様化することに譬えられる。さらに、この語には‘‘慈愛あまねき者”(ラフマーン)という神名のもとにある諸事象を、一切の苦より解き放つという意味が含まれる。このような慈愛の息吹は一切の事象のうちに隠されている。それは人が一息呼吸するごとに安らぐことに譬えられる(松本耿郎「慈愛の息吹」『岩波イスラーム辞典』427-428頁)

*7悪魔は神の被造物で、元来は天使だが、神に反抗した高慢な存在。クルアーンに出る悪魔にはシャイターンとイブリースがいる。神は人間を土から創造し、ものの名前を教え、大地における代理人とした。天使も神の被造物で、神が天使にその人間を跪拝するように命じたとき、天使のなかでイブリースのみがその命令に反抗した(Q2:34, 7:11)。その後イブリースは終末の日まで存在を許され、人々を惑わし、悪へとそそのかす存在となった(Q7:14-18)(cf. 小田淑子「悪魔」『岩波イスラーム辞典』10頁)。

*8注3参照。


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( 翻訳者:中西悠喜 )
( 記事ID:3704 )