Ismet Berkan コラム:共和国記念日の祝賀パレードに思う(Radikal紙)
2006年10月30日付 Radikal 紙

子どもの頃、母は私に、後には弟にも、10月29日の共和国記念日を必ず祝わせたものだった。少しは彼女が強いたせいもあって、イスタンブルのヴァタン通りで開かれる祝賀パレードを観客席から眺め、とりわけ軍楽隊や戦車が通り過ぎるのには熱狂したものだった。子ども時代のその頃に撮られた、手に(国)旗を持って振っている半ズボン姿の私の写真が今でも私の手元にたくさん残っている。

もちろんその後、私と弟は学校に上がった。私たちは学校のパレードに参加するか、学校(の行事)としてパレード会場まで歩いて行った。私はおそらく高校を卒業するまでは毎年共和国記念日のパレードに行ったと思う。

高校が終わり、パレードに加わる「義務」がなくなってくると、私も行かなくなった。そうして昨日の朝、久し振りに再び共和国記念日のパレードを見るためにヴァタン通りに出かけた。今度は12月に3歳になる息子を連れて。

交通渋滞やパレードの行われる一帯に車が入れないことを勘案してカバタシュから路面電車に乗り、アクサライ・ユスフパシャで降りてしばらく歩く。そして再び今度は地下鉄に乗って会場に一番近い駅であるエムニエトで降りた。

まだ駅を出ないうちから共和国記念日の熱狂が高まり始めていたと言うことができる。旗や風船を売る子どもたちと、自分や自分の子どものためにそれらを買う親たち。もちろん私たちも旗と風船を買い、階段に向かった。駅の出口では警官たちが会場にやって来る人全てのボディチェックをしていた。私たちもチェックを受けて、通りの脇に出た。

私の子どもの頃は来賓のためだけに通りの脇に観客席があった。パレードを見たい人は立ちっぱなしでいた。今年は多くの観客席が建てられているのを見た。もしかしたらもう何年もこうなのかもしれないが、私は今年になって気づいた。

多くの観客席が建てられたようだが、皆の行動も早く、どこも人で一杯のようだった。私たちは否応なく、観客席の間に残ったスペースから通りを眺めるしかなかった。

残念ながらパレードはいつになっても始まらなかった。近くにいる警官に尋ねたら、「10時に始まるはずだったのですが…」という答えだった。祝賀のため県知事、市長、第1軍司令官を乗せた車は11時頃になってやっと私たちの前を通り過ぎた。一方で、息子が「戦車はどこ?戦車はどこ?」と聞いてくるので、私は「待ちなさい、もうすぐ通るから」と話した。もちろん息子は「もうすぐ」などという言葉の意味を知らないので何も分からず、再び「戦車はどこ?」と聞いてくる。そうこうしている内に、遠くから軍楽隊の演奏が聞こえ始めた。周りにいた人たちも興奮に包まれた。人が何時間も待つのは容易なことではない。皆、手に旗や風船を握り締めて… 周りにはいろいろな人たちがいる。頭にスカーフをかぶった若い女性や、子どもを肩に乗せて半ズボンを履いた男性の姿もある。

軍楽隊が一向にやって来ないので、私たちはそちらに向かって歩いた。見ると、軍楽隊は来賓の前で止まっているではないか。にもかかわらず、何千人もの人がこの先で待っている。頼むからそこまで行ってくれればいいのに。いや、祝賀は我が国では来賓のためのものだ。来賓が遅れて来れば遅く始まり、見せ物もすべて彼らのために行われる。ところが道の脇には自分の意思でやって来た何千人もの観客がいて、日曜日に家でのんびりする代わりに共和国(記念日)の熱狂を分かち合うために来ているのだが、いや、やはり彼らは待たされなければならない…

ちょうどそのとき、パレードの代わりに何人かの小中学生への表彰が始まった。このばかげた、やはり来賓以外の誰の興味も引かない表彰式がとても長引いたので、息子はすっかりぐずり始めた。

自分のことをなんとか思い出そうとしてみるに、私もぐずったり、退屈したりしていたのだろうか?きっとそうだろう。その上今は息子が退屈しても仕方がない。そもそも何も見ることができなかったのだから。

ずっと後になって、パレードが始まった。私たちは疲れ果てていたが(2時間半は立ちっ放しだった)、それでも幸せな気持ちで会場を後にして帰路につくことができた。

皆さん、過日の共和国記念日、お祝い申し上げます。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:3819 )