Hasan Cemalコラム:現代クルド文学の重鎮メフメド・ウズン -クルド語で話していたら・・・(Milliyet紙)
2006年11月17日付 Milliyet 紙

癌と闘病中のメフメド・ウズンは、「人間を母語から切り離すことは人道的罪であり、非道だ。監獄で、法廷で『クルド語という言葉はない。クルド人もいない!』と言われた。ひどく傷ついた。私は自分が無力であると感じていた。」と話した。


メフメト・ウズンは、非常に穏やかで、落ち着いて、句読点を打つように話す。内面の平静さを手にした人に特有の、自信に満ちた雰囲気を持っている。彼のやわらかな眼差し、顔の表情を見れば、彼が本当に誠実な人間であることがわかるだろう。

痩せ細ってしまった…
「メフメド・ウズンは、先の7月中旬にストックホルムからディヤルバクルに来た時点で、あと1週間か10日の命と言われていた」と、シェイフムシュ・ディケンは話す。「我々は茫然自失となった。なぜなら、現代クルド文学には2人目も20人目もいなかったからだ。メフメド・ウズンは、クルド語、そしてクルド語現代文学を世界に紹介した唯一の文学者であり、小説家だったのだ。それゆえに、我々は恐ろしさに呆然となった。」

癌は、彼の胃を襲った。
おそらく、長い亡命生活で、骨身を削る思いで行ってきたその活動の痛ましい結果だ…妻のゾザンがうなずいている。

メフメド・ウズンは、亡命が生み出した文学者だ。小説「失われた恋の影で」の前書きでは、“愛すべきハサン・ジェマルよ、故地から追われることについて話すことは難しく、胸が詰まる思いだ”と書いている。

スウェーデンでの長い亡命生活を経て、母国に帰って来たのは骨を埋めるためではない。「ディヤルバクルは上メソポタミアの回復の泉だ」と、この地に療養にやって来た。
病院前のダルカプ広場には、彼のために詩をつくった大衆芸人デング・ベイがいる。シェイフムシュの言葉を借りれば、”言葉の尽きることのない場所から呼びかける大衆芸人…メフメド・ウズンが一刻も早く回復するようにと、彼のためにクルド語の歌や民謡を歌い、クルド語の伝承を朗誦した。

まるでウズンの幼少時代のように。
「私が子供の頃、私たちの家に来る人たちの中に大衆詩人人デング・ベイがいた。彼らはクルド語の語り部だった。私たちの家でクルド語の民謡を歌ったり、伝承を語ったりしていた。」

■あのときの殴打!

ウズンは、1953年ウルファのシヴェレッキで生まれた。
「大部族だった」と語る。「家や近所ではクルド語を話していた。クルド語は私の母語だった。普段話す言葉だ。だが私にクルド語の読み書きを教えてくれる者はなかった。何年も経ってから、3月12日クーデター(1971)の時に、私は監獄でクルド語の読み書きを学んだ。18歳だった。ムサ・アンテルと、私のいとこフェリト・ウズンが教えてくれた。クルド語との真剣な付き合いは、この時から始まった。」

ウズンには、忘れられない殴打がある!
「シヴェレッキで小学校の登校初日に殴られたことがある。今でもその時のことは忘れられない。私は校庭で列に並ぼうとしていた時、仲間内でクルド語を話していた。するとイスタンブル出身の予備役将校の教師が、私を一発殴った。トルコ語を話せ、と。だが、私はトルコ語を知らなかったのだ…。」レバノン人作家アミン・マアロウフは、著書「死にゆくアイデンティティ」の中で、人間を母語と切り離すことほど危険なことはないと述べている。
「私は一発の殴打によりトルコ語と知り合うこととなった。私の母語とのつながりはこうして断たれた。教育や文化を語る言葉がトルコ語であったことが、私とクルド語のつながりを奪った。言葉を禁止するというのは、人道的罪だ。人間を母語から切り離すことは非道なのだ。人間を母語から切り離すことは、人間の魂を、人格を傷つけ、成長を妨げる。私にとってこのクルド語禁止政策は、トルコ共和国が犯した最大の過ちの一つだった。」

ウズンは、父親について回想する。
「私は6人兄弟だった。父は、クルド語とのつながりを失わぬようにと家で私たちにクルド語の歌を歌ってくれた。我が家はあるジレンマを抱えていた。両親は子供たちを学校で学ばせたいと願っていた。これは、親たちには与えられなかったものだった。しかし一方では、自分たちの文化、言語とのつながりをいかに維持していこうかと思案していた。」

1971年3月12日クーデターの勃発。
「私はクルド人であるという理由で逮捕された。18歳だった。シヴェレッキでは、壁には様々なプロパガンダが書かれていた。ディヤルバクル軍隊刑務所に28人が一度に送られた。私とクルド語との初めての本格的な出会いはこうして起こった。監獄にはあらゆる人がいた。タールク・ジヤ・エキンジ、メフメト・エミン・ボザスラン、ムサ・アンテル、フェリット・ウズン…
1972年3月3日、私は逮捕された。監獄にはクルド人の知識人や学生もいれば、村人もいた。それに、地主や村長、つまるところ地方有力者たちもいた。バルザーニを支援したことが原因で逮捕されたのだ。知識人たちはトルコ語を話していた。地方の有力者たちはクルド語を話した…私たちと一緒に投獄された人の中には、大衆芸人デング・ベイもいた。すべての方言、つまりクルマンジ語、ソラニ語、ザザ語などあらゆる方言を話すクルド人がいた。クルド語の豊かさを、私はこうして監獄で始めて知ったのだ。その後、故郷を離れ、投獄される中、クルド語の小説言語を発展させようとした矢先に、今度はまた別のクマンジュ語を知ることとなった」

その後ディヤルバクルからアンカラにあるママク軍隊刑務所に送られる。そこで、メフメド・ウズンは決して忘れることのできない、ある苦い経験をする。

クルド語への侮辱!
「監獄や法廷でクルド語はひどく侮辱されていた。国家治安裁判で、軍の検察官らが『クルド語という言葉はない!』と言うほどに、私はひどく傷ついていた。クルド語が豊かな言語であり、歴史ある言葉であることを、現代の文章もクルド語で表現できることを、私は言いたかったし、見せたかった。」

■雑誌『自由』での責任

ウズンは、1976年の裁判を回想する。
『自由』の裁判を…

メフメド・ウズンが発行責任者となっていた雑誌『自由』に、イスマイル・ベシクチが署名なしに記事を載せた。同雑誌の政治路線は敵対的であり、急進的である…
1976年には、9ヶ月拘留されている。

「国家治安裁判所(DGM)では、軍の検察官が起訴状でクルド語という言葉はないと発言した。そんなことがあり得るだろうか?」メフメト・ウズンは話す。「私はこの言葉を持って生まれてきた。母と父とこの言葉で話した。クルド人はいない、クルド語はないと言われるのを聞けば聞くほど、私はひどく傷ついた。法定でこのような状況であれば、人は自分を非常に無力に感じ、途方に暮れる。こんな法があっていいのかと心の叫びが聞こえてくる…こうして私は監獄の中で、今ある言葉として、クルド語を文学の中で用いようという、ある感情が芽生えていくのを感じていた。」

■故地を追われなければ・・・

ウズンは監獄から決意を持って出所する。判決が下されることを知ると、スウェーデンに亡命する。

メフメド・ウズンは次のように語っている。
「もし亡命しなかったなら、これまで生み出してきたクルド語文学は書けなかっただろう。」
ウズンは、亡命の地で他のクルド人、すなわちシリア、イラク、イラン、コーカサスのクルド人作家らと交流する。ジエルフン、オスマン・サブリ、ハサン・ヒスヤル、ルシェン・ベディルハン、ヌーレッティン・ザザ、イブラヒム・アフメト。それに、ウズンが「クルド民族行進曲作曲者」と呼ぶイラン国籍のクルド人、ヘジャール…
1920年代、特にシェイフ・サイードの反乱の後にトルコからシリアに移り住み、ラテン・アルファベットを使い執筆を行っていたクルド文学者らと知りあり、学んだ時期・・。

ウズンは当時の苦労をこう語っている。
「クルド語小説を書くことは、トルコ語やペルシア語を書くこととは違う。なぜなら、その言葉は禁止された言葉なのだから。教育、通信、現代生活から遠ざかった言葉なのだ。つまり、去勢された言葉ということだ。このような言葉を使って、豊かで近代的な文学を生み出すのは非常に困難だった。」

ウズンはここで、こう付け加えている。
「オルハン・パムクには、このような苦労はなかった。なぜなら彼は、自分の母語であるトルコ語で書いている。彼には、成熟した文学があり、発達した言葉がある。本も作家も学校も、大学も辞書も百科事典もある。だが私が腰を落ち着けてクルド語を書こうと決意した当時、このようなものは一つもなかった。私はこのうちのただの一つも持っていなかった。こうしたものすべてを抜きにして豊かな小説言語を発展させるのは、非常に困難だった。」

ウズンは、止まって考える。
そして、いったん息をついでから、再び話し始める。

「クルド語小説を書き始めたとき、私の手元にはムサ・アンテルが1960年代に監獄で作成した薄っぺらな辞書があった。それから、メフメト・エミン・ボザルスランの辞書だ。これは、19世紀から残っている辞書の翻訳版だ。私はトルコに行くことができなかった。だから頻繁にシリアへ行き、クルド人や民衆や、素人の詩人、歌手、大衆芸人デング・ベイらと共に時を過ごし、クルド語を探し求めていた。花や木や、鳥のクルド語での名前を学んでは覚えていた。ディアスポラの地で私が創作活動をする以前に書かれたクルド語文学の作品、雑誌、本をあさっていた」

困難な仕事に取り組む!
「骨身を削る思いでなさってきた活動が、最後に胃を襲ったように見えますが…」
「そうかもしれない。」メフメド・ウズンは言う。部屋の隅で私たちを黙ってみつめているゾザン(トルコ語でヤイラ)は、うなずいている。

現代クルド文学の重鎮であり最も偉大な著名人との会談の第2弾は、また明日…


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( 翻訳者:倉本さをり )
( 記事ID:3910 )