Hasan Cemalコラム:ノーベル賞受賞後のパムクへの対応は、軍文化の影響(Milliyet紙)
2006年11月18日付 Milliyet 紙

メフメド・ウズンは、オルハン・パムクへのノーベル賞受賞後の対応を非難している。ウズンは、「中国以外でこのようには対応されなかった。コミュニストのサラマーゴ、ユダヤ人のケルテースもノーベル賞を受賞すると祖国で賞賛された」と語った。

メフメド・ウズンは1970年代、「3月12日」事件(1971年3月12日に起こった、トルコ軍部によるクーデター)のころ、アンカラの有名なママク軍隊刑務所に収監されていた。同じ刑務所でトルコ人知識人とともに過ごしたその一時期を重視している彼は、このように語っている:「ウウール・アラジャカプタン、ウウル・ムムジュ、ミュムタズ・ソイサル、エルダル・オズ、アティラ・サルプ、ルヒ・コチらは、クルド人に対して明確な敵意を持っていなかった。彼らの所には本がたくさん差し入れられていた。彼らから本を読むことを教えられた。後年、私はウウル・ムムジュを手助けした、彼が『シェイフ・サイドの反乱』という本を書いていた時に・・・」、メフメド・ウズンは、1970年代は政治的に大変厳しく過激であった、と告白する。「当時のトルコの状況も人間を過激にさせていた。時と共に磨かれて丸くなり、政治路線は軟化しつつあった。
二度と投獄されないように1970年代後半からはスウェーデンへ、流刑になった時も政治と距離を置くように決めていた。
言葉、文化、文学・・・
政治ではなく、これらが重くのしかかる人生に関して行った選択をこのように説明している:
「クルド語で新しいことがしてみたかった。近代的なことが・・・クルド語の物足りなさをいつも感じていた。」
クルド文学においては、メフメド・ウズンにいたるまで伝統的スタイルが優勢だった。地方や都市といった地域を反映していない文学だった・・・。「クルド文学は閉鎖的な社会の作品だった。近代的ではなかった。開かれた社会、民主的で現代的な社会の、(つまり)今日の、クルド語での小説言語や文学語をつかみたかった。このためにクルド語の再生、刷新、そしてもちろんクルド語が愛されることが必要だった。」

■個人と奴隷!
小説をトルコ語ではなくクルド語で書こうと一大決心をした。エッセーや論文はトルコ語で書く。最初のクルド語の小説の題名はというと:
「Tu(あなた)」です!
トルコ語で「あなた」
なるほど、でもなぜ「あなた」なのか?
「クルド語では個人の概念が非常に弱かった。常に社会―奴隷の関係が優勢だった。政治的なクルド人組織でもそうだった。スターリン主義的、全体主義的な路線が明確だった。不法行為も問題だった。このため、人間的、知的な関係は後回しにされていた。私はこれに反発した。この関係を批判した。このため、『Tu』を、つまりあなた、という意味だが、これを私の最初のクルド語小説の題名にした。個人を前面に引き出すために・・・」と語り、次のように続けた。
「このため、PKKとの関係も問題だった。彼らは、自立した知識人の態度に慣れていなかった。私は(彼らと)距離を保った。私は敵意を持っていたわけではないが、必要な場合は、批判精神でもって彼らを見ることもできた。

■自立した知識人よ!
自立した知識人の態度・・・
この問題を非常に重視している。
彼は次のように語る。
「著作業を政治的プロパガンダの手段やイデオロギーの手段とは考えなかった。文学には作者固有の関心やルールがある。それらに沿って、著作業に努めなければならない。このため、クルド人の政治、組織に対して距離を保つよう努めた。もちろん、それらに対し非常に遠くから、てっぺんから見ていたのではない。議論や対話の道は閉じなかった。私は人とは違ったことをしていたのだ。」

■ヒューマニストの態度
その違いはとは何だったのか?
その問いに対する答えの一つは、メフメド・ウズンがしばしば使うある単語に結び付けることができる:それは、ヒューマニズムだ。
「自分自身については話したくないが・・・」と始め、「ヒューマニスト的態度であらねばならないと考えていた。クルド語に関するすべての代表者、右派、左派、宗教主義者、世俗主義者、ヌルジュ派、スレイマンジュ教団、若者、年寄り、イラク人、シリア人、あるいはイラン人、皆と分け隔てなくコミュニケーションをとった。」
ウズンは一瞬黙った。
その後もう一言:
「私は流刑作家だ!」
流刑作家とはどういう意味か?自分が昨日の記事で明らかにしたこの一文が取りつき、再び私の心を悩ませる:
「流刑について話すのは全く困難だ;言葉が喉に詰まる、というのは・・・」
流刑とは、ひとつの場所における多文化性ということだ。二つ以上の言葉、文化環境と一緒に寄り添って生きる義務があるということだ。クルド語、トルコ語、スウェーデン語を話すとき、人が自分の中で感じ始める分裂感、自分が分断されるような感情のことだ・・・
メフメド・ウズンの解釈は次の通りだ:
「しかし忘れないでくれ。この多文化性を、一つの力に変えることも可能なのだ・・・」

■パムクへの対応
メフメド・ウズンは、オルハン・パムクのノーベル文学賞に対するトルコの対応を非難している。これらを「軍文化」の一つの産物であるとみなしている。「知識人が、なぜ公式イデオロギーの路線で振舞う必要があるのか?中国以外の国ではオルハンに向けられたような対応は全くなかった。ジョゼ・サラマーゴは、ポルトガルで体制に反対するコミュニスト作家だった。このため、スペインで生活した。しかしノーベル賞受賞後、ポルトガルでも名声が高まり、大統領に至るまで皆が受賞を祝った。ハンガリーのユダヤ人イムレ・ケルテースもハンガリーでなくベルリンで生活し、国の体制を批判した。しかし文学でノーベル賞を受賞すると、ハンガリーも彼を抱きしめるかのように温かく迎えた。ハロルド・ピンター、ギュンター・グラス、彼らも、それぞれの国、イギリスやドイツの過去、体制を問いただしたラディカリストあった。ノーベル賞を受賞したが、それぞれの国でオルハン・パムクが直面した非文明的対応は受けなかった。オルハンに対してなされたのは、唯一中国で高行健(ガオ・シンジェン)に対してなされたものだ。『霊山』の作者シンジェンは、ご存知の通り、毛沢東時代の中国で文化大革命時に本が焼かれ、パリに亡命しなければならなかった。ノーベル賞を受賞すると、中国共産党はやがて、ガオ・シンジェンは売国奴であると宣言したのだ。
ウズンはこう続けた:
「残念ながらオルハン・パムクに対して、文明的には対応されなかった、絶えず押し出てくる国家主義のため・・・。」
彼は最後にこう言った:
「公式イデオロギーは、トルコに着せられた狂気のシャツのようなものだ。トルコが本当に近代的な国家になりたいのならば、この田舎根性から解放されなければならない」
明日の第3回目のメフメド・ウズン特集は、クルド問題、休戦、エルドアン首相、メフメト・アアル、ディヤルバクルの印象、の予定である。




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( 翻訳者:富田祐子 )
( 記事ID:3916 )