Turker Alkan コラム:短気なエルドアン首相、節度ある発言を(Radikal紙)
2006年11月04日付 Radikal 紙

エルドアン首相はすぐに腹を立てる人だ。立腹すると度を過ぎた言い方で過ちを犯し、頑なな、人の意見を聞き入れない指導者のイメージを与える。このことはただ野党の役に立つだけで、AKP(公正発展党)にとっても彼自身にとっても利するものは何もない。インパシュ問題でマスコミに報じられた記事への反論においても、怒りをなかなか抑えられない姿をさらけ出した。これまでマスコミに向かって闘いを挑んだ政治家がそれから利益を得たのを見たことがない。

しかし、政治家と呼ばれる人は(首相であればなおさら)冷静でなければならない。スレイマン・デミレルやイスメト・イノニュがその好例だ。2人とも最も不吉な、危機的な状況においても冷静さを失わなかった。独特のスタイルで静かに話し、話題を自らの望む方向へと持って行き、自分が適当と思ったことを口にしたものだった。

だが、エルドアン首相の口にはブレーキがない。もしかしたら(イスタンブルの)カスムパシャ出身であることから残る習慣なのかもしれないが(時には彼が憎めない人物であるとも言わなければならない)、思いついたことを手を演壇に打ちつけながら声を荒げて言ってしまう。これは「おれは誰も怖くない、おれの言うことが気に入らない奴は出て来い」という意識の現れだろう。

過去に収監されたときに英雄となるきっかけとなった「モスクは我々の兵舎だ、モスクの尖塔は我々の銃剣だ、モスクの円屋根は我々のかぶとだ...」と続くめちゃくちゃな韻文も(断じて詩的ではなかった)、このようにアドレナリンの爆発した状態で言ったに違いない。民主主義を、降りようと思えばいつでも降りられる路面電車にたとえたことで、わが国の政治文学における抜きん出た地位を得たのも、やはりこういう時であった。

(本紙コラムニストの)ハック・デヴリムはこの精神状態を説明するのに「言葉の欲にとりつかれる」という表現を用いた。エルドアン首相はしばしばこの状態に陥っている。話すこと、演説すること、そして比喩的に表現することのとりこになっている。

一番新しい例が「兵役はくつろいで寝る場所のことではない」という言葉だ。この言葉を口にする前に少しの間考えていたように思うが、比喩を用いることの魅力が勝った。言った後も話を撤回しようと躍起になっていた。

選挙(に向けた準備)が本格化してきた。今後、インパシュ問題を忘れさせるような出来事がたびたび議題に登場し、すべての政治家同様にエルドアンも、すべての政党同様にAKPも批判にさらされることになる。こうした批判には正当なものもあれば、そうでないものもある。エルドアン首相がこのまま短気で気難しいままでいれば、より多くの問題を引き起こすことになるだろう。「兵役はくつろいで寝る場所のことではない」という言葉に対する世間の反応のように。

新約聖書には次のような話がある。イエス・キリストに(使徒が)「ブタを食べることは罪ですか」と尋ねた。イエスは「人の口に入る食べ物は罪ではない」と言い、次のように答えた:「口から出るものに気をつけるがよい。それらが罪になるかもしれない」。

政治、さらに日常生活の大部分は、言葉やイメージで成り立っている。立腹して言葉の節度を失うならば、負けてしまう。(17世紀のトルコの著名な詩人である)ネフィほどの言葉の達人でさえ、口を慎むことができなかったために負けた(風刺詩を詠むのをやめなかったために殺された)のではなかったか?

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:3840 )